風土心理学 1915


例言

人の精神が社会的環境のために影響されることの多きは論をまたず、これと同時に自然的環境、すなわち土地の性質及び周囲の風物が人の心意(以下精神と訳す)生活に及ぼす労力の大なることもまた、実に顕著なものがある。そうしてこのような土地風物の作用が私たちの精神に影響する過程には二通りの方法がある。一つは私たちの中枢神経系をたどるものにして、他は主として私たちの感覚器官を刺激するものがこれである。さらにこれを詳しく述べれれば、前者にあっては、大地、空気もしくは大地の部分が天候あるいは気候として、また、後者にあっては、それが風景として我々に作用する。そしてこれらの興味ある事実を対象として研究するのを、いわゆる風土心理学の目的とする。しかるに諸種の科学的研究の盛んなる欧米諸国においてすら、これが新研究に従事する学者なお未だはなはだとぼしく、方々の隅々の熱心な学究の士がこれの敢行を試みてはいるが、幾多の困難の生気によって中途挫折の止むなきに至っている。従ってこれに関する種類の著書もまた少ない。なかんずく、系統的に少しまとまっているものとしては、ただ本書だけである。(p1)



本書は原名を"Die Geopsychischen Eischeinungen"(精神地学現象)といい著者ウィルリ・ヘルバッハ博士(Dr. Willy Hellpach)はドイツ・カールスルーエ大学心理学教授にして、十有余年の歳月を費やし、寝食を忘れてこれが研鑽(けんさん)に努力し、その結果本書を成すに至れりという。されば本書は世界における斯学(しがく)の権威として遍(あまね)く世間一般に推薦するに足るものである。
本書『精神地学現象』は膨大な大書で引用例もすこぶる多く、一般読者にとっては聊(いささ)か煩瑣(はんさ)に過ぎるを嫌なしとせず、その文章は堅苦しく曲がりくねっていて、新しい専門術語もまた極めて豊富である。そのために本書はここに意を用いて、特に斯学(しがく)に造詣(ぞうけい)深い心理学専攻文学博士渡邊徹氏に原書の部分々々に多少の取捨按排(あんばい)を施し、だいたい解説の方法をとって本書を成している。けだしこれは読者に対して最も忠実な斯学紹介の手段となっている。そうしてこれによってわが学界に裨益(ひえき)すること大なるは疑いを入れない。
 今や本書の刊行に際して本協会は、ここに原著者ヘルバッハ博士に対して敬意を表し、併せて訳述者渡邊氏の労を感謝する。(P2-3)

大正(1915)年4月3日 大日本文明協会識





p1

目次

  序論  風土心理学の任務 p1
    自然環境――「風土心理学的」事実
    ――風土心理学的問題提出の現状 p21


第一編  天候と心意生活。 p21


  第一章  天候の形態 p24
      雷雨――南風(フェーン)とシロッコ――蒸暑
      ――降雪――一般天候の変化――地震

  第二章  天候の要素 p59

    第一節  大気界の要素 p61
      空気の温度――空気の運動――空気の組成
      ――空気中の湿気――空気の圧力
      ――空気中の電気――空気中の放射線


    第二節  大地界の要素 p131
      大地の温度――大地の運動――大地の電磁気
      ――大地の組成――大地の湿気――大地の重力

p2

    余論  天界の要素 p143


第二編  気候と心意生活 p147


  第一章 気候の変化

    第一節  気候の変動 p153

    第二節  気候の変換 p162
      寒帯及び亜寒帯の気候――熱帯的気候――
      内地気候と海浜気候――山岳気候と低地気候


    第三節  気候の要素 p189


  第二章  心意的気候適応 p197

    第一節  気候に慣熟すること p199

    第二節  気候による心意的特性の変形 p210

    第三節  気候による心意的変態 p222

精神病――神経性精神病、神経病


p3

  第三章  気候的及び心意的周期 p238

    第一節  心意生活の日周期 p240
      覚醒と睡眠――常態の睡眠震度曲線
      ――精神作業の一日中の変遷――変態的日周期

    第二節  心意生活の年周期 p265
      性欲――自殺、性欲的犯罪、精神病――躁鬱病と
      神経衰弱――精神的作業の年周変動――固有
      周期と年周期

    第三節  『天文心理的』現象 p296
      月夜狂(睡遊)――月と性欲――月と週――
      数日及び数年の周期――フリースの周期臆説

    余論   人為的気候 p323



第三篇  風景と心意生活 p327



  第一章  風景の諸要素 p332


p4



    第一節  風景の色 p333
      赤と黄――緑、青、(不明)、紫、――黒、灰、白
      ――風景色の対比と吸引

    第二節  風景の諸形態 p358
      最も単純な形態――最も複雑な形態――風景形態
      の尺量――風景形態の方向――動く風景

    第三節  聞き、嗅ぎ、また触れる風景要素 p376
      


  第二章  風景の形象、および風景の性質 p397



    第一節 風景の形象の総合 p400
      風景的類化――風景的象徴化――風景の倫理化
      間接なる風景印象――風景の性質

    第二節  顕著なる風景の形象 p429
      日光赫灼(かくしゃく)たる風景――眺望――山と谷
      ――夜――黄昏――晩秋――格外の風景

    第三節  精神的発達における風景 p438
      年齢の風景感受性――時代の風景感受性――
      風景が民族の気風と民族の運命とに及ぼす影響




p5



    余論  文化的風景 p450




概観  風土心理学の研究法 p455
    風景の影響――心意的結論――簡単な自己観察
    ――統計法――風土心理学的実験――
    民族心理学的方法



索引 p477





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p1







風土心理学




p1    序論  風土心理学の任務



  一  自然的環境  

精神科学はほとんど、最近30年来、心意現象を構成せる諸要素を実験的に分析することに腐心しつつありしも、近来、心意上の全人格の紛叫錯綜せる諸事実を観察することをその中心点と為すに至れり。されどそれは要素分析がもはや、無用な事として度外視されたのではなくて、かえってそれが齎(もたら)した結果、並びに方法は今やますます効用の極めて多きを認められる至った。されど今日の情勢はこのような研究を事とする所に存せずして、結果ならびに方法を用い、この複雑紛叫する諸々の現象に当たって吟味し、解明すること、すなわち実験室において為したる心理学研究を現実の心意生活に応用することに存するなり。かくていわゆる「応用」心理学を研究し、「教育的」心理学、「犯罪」心理学「宗教」心理学「品性学」を研究す。 


p2


 これを研究するのは決して単に新奇を好むがためではなくて、また我々の能力がその研究を決着にまで成し遂げるのを得るがためでもなくして、全く実際上の必要に迫られたからである。現代はあらゆる方面から心理学に対して要求するところがある。
 人々はこの新しい手段を用いて研究する心理学が、この事、かの事をいかに告げるかを知ることを欲し、また、しばしば現代心理学が、いかに好意をもってしてもなお、かつ答え得ざる程のことをもこれより学ぼうとしつつある。
 心理学的研究はこのように種々な方面によって、心意の現実情態を研究すべく誘導せられたのであるが、その心意の実体を観察する者は、ずっと以前から、それが他の諸々の現実界より多方面の影響を蒙(こうむ)りつつある事実に着目して、これを特に興味ある問題となすに至った。意志の自由または心身の関係に関する論争などは、実にこのような興味が、数世紀にわたって哲学上に及ぼした影響に他ならない。
 心意的現実体はもちろん個々の人格の枠内にのみ存在するものであるが、しかも、この人格においても肉体的現実と連結していて、ただ肉体によって規制されるのみならず、心身相共に互いが規制しつつもある。
 


p3


これと共にこの心意的現実体は、また心意的に他より影響される。すなわちこの現実体は、他の個々の心意的人格に依存する。「人のどうかは、その食べ物のどうかによる」――これは上の第一の決定論を特に野獣的な形式で言い表している。「人はその思考、感情、行為において、教育、階級、社会、時代の所産である」――これは上の第二の決定論を言い表した普通の形式である。数十年前、ヒッポリート・テイスはこのような言葉を総括して、彼の環境論の中に印象深く言い表している。すなわち、人の人格は、その身体性(種族、脳組織、心身的有機体その他)の生活境域、その生活年代によって徹頭徹尾規定されること、そうして人格の規定者たる「いわゆる生活境域」は、二個のはなはだしく相異なる種類の影響を含んでいる。すなわち第一は、家族、身分、階級、社会、人家、実際の伴侶などとして現れる<社会的環境>。第二はすなわち<自然的環境>にして、これはいかに文明の極致に達してもなお、地上の空気中に住まなければならないということが、人の生活がいかに巧妙に按配し尽くされてもなおかつ、地上なる舞台に束縛され、そこから出られないということ、生活はある一定時間、この舞台の上の一定の限られた地域に生存することによって成り立っている。



p4



もとより文明は、このような束縛から生じた幾多の影響、作用に打ち克ってきたである。衣服、食べ物ようなものを見ればよい。今も昔も人類は、これら両者において地上に生ずるところのほとんど一切のものを巧みに利用してきたのではないか。文明の進むにつれて、地球上のあらゆる地点に住む人類の衣食が相接近して、自然環境の影響が、この衣食の点においてますます減退するに至る。住居、特にその最も複合せるもの、すなわち都市家屋において見るも、また自然及びその決定的影響より次第に脱却して来るのは、衣食の場合と相似ている。すなわち、ここにおいて家屋は天気の影響の大部分を除却し、人工的な生活の雰囲気を造り、こうして天然が感官に及ぼす作用、その色、形、香などをもまた、人工によって巧みに変化させている。しかしそうだといっても未だ生活全体がこのような大気中にて行われるまでには至っていない。家屋より一歩外に踏み出せば、我々はただちに自然環境の影響をこうむる。あるものは今日なお、私たちの家屋を囲む壁を通して、その家屋のすみずみまでも私たちに追い迫ってきて、また他のものは人口によっては人工によっては到底、私たちより遠ざけることのできないものである。のみならず加えて、文化がある階級に到達すると、私たちは再び天然に帰ろうとする傾向を持つ。





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すなわち今まで注意按配して排除してきた、自然より受けるある種の影響をむしろ反対に自ら選び進み、少なくともしばらくは再びその影響を受けようとする要求が生まれる。その他文明の進歩に伴う特殊な現象もある。たとえば交通は、一方において地上の距離を短くするものであるが、同時にまた他方においては、人々をしてますます多く地上における土地の差異性がもたらす影響を経験する傾向がある。要するに自然的環境の及ぼす諸種の影響はなお、はなはだしく開き広がる文明の影響によって未だ全く駆逐されていない。しかし、このように幾多の方面において天然を支配し得るに至った人類も、他の幾多の方面においてはなお、永く天然の支配を受けている。しかしまた、特にこの心意上の事項においてもまた、そうではないだろうか。そして、もしもそうだとすると、それはいかなる方面においてなのだろうか。これは大いに研究しなければならない問題である。


  二  「風土心理学的」事実

自然的環境に算入される一切の事柄のなかで――この中には例えばある一定の土地に生ずる食物や衣服を製する材料をも含む――私たちは先ず、私たちの研究が関係する諸因子の狭小な一団を指摘する。すなわち<私たちを取り巻く大気の性質及び私たちの生息する大地の性質、しかもそれが心意生活に直接の影響を及ぼす範囲において>、「母なる地」は、ただ私たちをしてこのように感じさせるだけでなく、




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それは我々に食物、衣服の材料を供給し、また疾病(しっぺい)をももたらすある種の動植物を我々の周囲に生育させることによって、もっとも軽微な気分の動揺から、進んで最も重大な心理的病悩にいたるまで我々の心意生活に影響する。それとともにまた大地より生ずる産物の有利なる有害なるかによる間接の影響があって、大地の精神(心意)に及ぼす直接の影響もある。この際、大地はただ我々を左右する影響の単なる条件となるのみならず、反対に土地そのものが我々に向かって働く作用の原因となっている。その作用は、二種の経路を通って我々の精神に入って来る。すなわち、感官をたどる道筋と中枢神経系統をたどる道筋がこれである。第一の経路には大地とその空気の部分、またはその大地の部分が天候として、もしくは気候として。第二の経路では、それは風景として我々に作用する。これらどちらもが、いずれも我々の生活舞台たる土地が我々の精神生活に直接に作用しているが、それらを私は今ここに風土心理学的事実として総括し、これをもってかの精神を共にする諸人格の共同生活によって発生するところの「社会心理学的」事実とを区別しようと願う。天気、気候、および風土より来る精神上の作用は、かくして「風土心理」という概念の内容をなし、同時に私の研究を構成している。




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  こうしてすでに述べた条件と原因との区別、すなわち、天候、気候及び風景等の直接の作用と間接の作用との区別は、いちいち必ずしも容易に学問的に処理し尽くすことが出来るものでもなく、かといって一切の学問的な区分は、分離不可能なところまで達することがなければ、徹底したものではないというのが確固不抜の心理である。

  第一――何らかの作用が直接に止み、何らかのある作用が間接に始まるところの根底には随意的な、言い換えると、学問的な問題提出という現前の需要から出発する、すなわち研究者の手練れの感じという根拠からくる限界がある。しかもあらゆる因果関係の連鎖は、それ自身限りないものであって、また個々の科学の任務はまさしく、一切の原因と作用の限りのない前進と後退との制限を規定するところにある。はたしてそうであるならば、気候もまたあらゆる生活の方面に対して極めて重大な影響を及ぼすがゆえに、滋養を取ること、病気にかかること、社会的に交わること、その他さまざまな事件、並びにその他一切の結果の大部分は、よく人をして気候の関係から「説明」し得ることのように思えてくる。





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自分に親しい人が肺炎で死に、しかもその肺炎は彼が北東風に当たったためにかかったとすれば、この風は間接に自己の悲嘆(ひたん)の原因である。このように、因果関係を押し広げることの無意味なことは、もとより私たちの「感情の内に」懐(いだ)くところである。しかもこれを私たちは「感情の内」以外にはどこにも懐かず、そうしてこの感情は実にその決着点となっている。次にまた、ある学問の完成には、他の諸々の事項と同時に、その学問が研究する因果の連鎖の拡大を伴う。新たに問題を起こすときに、もしもこれについての事実の探求を為さずして、ただたんなる推理のみを事とするだけで止めてしまうと、どんな場合にもこの連鎖を必ず簡潔にとらえることはできない。次々に相継起する一連の因果をなるべく確かに決定することが出来ない。そうであるならば私は私たちの研究を、天候または気候、または風景と精神生活との間の直接の因果関係をきわめる事のみに制限するように努めんと欲す。

  第二――これと同時に、私は他のものを一切取り除き、ただある作用を起こす原因についてのみ取扱いこうしていわゆる「条件」なるものについては顧みることがない。この条件とは、実は同じく原因である。




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すなわちそれは、ただこれだけでは、何らの作用と効果を必然的に惹き起こすことがないけれども、しかもまた、これなくしては条件の作用と効果は起こり得ないものとして、すなわち必然的な副因となっている。そうであるならば、いかなる原因をもってある事象の主因とし、または副因とするかは、主としてその問題提起によって定まる。こうしてある部門の枠内において ある事象の条件と見なされる事柄が、他の見解においてはその事柄の原因と見なされる。そうであるならばこの区別は論理的なものである。こうして、もしもこれを論理的なものでなく、実質的なものだとすると、それは実にこのことの価値全部を失うことになる。けれどもこうしたことは、実際に起こる。例えば、精神作用に対して心身並行論の立脚地はこのようになりやすい。しかしこうした考えは身的なものと心的なものとの間に因果関係があるということを許さず、、こうして同時にこの並行という概念によって実際上、なにごとをも為し得ないとして、従来この立脚地の代表者等は好んで心的作用のみを心的事象の原因であるとし、こうして原因として活動することの争うべからず身的作用を、心的なるものの「条件」であると主張し、そうしてこれを避けたのである。例えば、ある高揚した気分が、ある高揚させるような光景によって惹き起こされたとすると、この光景はその気分の原因だとする。




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そしてその気分が、中枢神経系統のアルコール化によって惹き起こされたとすると、これがその気分の条件だとする。このような結果に陥るのは、この説明の際に論理的気分を投げ捨てて、実質的区分を自己の随意に用いたゆえであると言う以外、他に何らの考慮をも要しない。言い換えれば、これすなわち価値あるものを放擲して、ただ無用な偽りのものを採用、したゆえである。故(ゆえ)に私はこのような俗人流の見解に陥ることを避けて、原因と条件との間の区分を単に論理的なものとしてこれを確保する。こうして私は天気も、気候も、風景も、単に心的情態の原因としてのみ見ようとする。件(こ)の情態を惹き起こす条件、すなわち必要的副因は、たとえばある有機体が一定の病的情態に陥り、こうしてその病的情態の存するがために、天気も、気候も、風景も、はじめてよくそれぞれの心的作用を惹き起こし得るような場合に見られる。これを為すに当たり私は実用的に心身相制論の立脚地及び用語を踏襲する。したがって心的なものを、心的なものの原因ならびに身的なものの原因として観察し、またこの逆の観察をも為す。こうしてこの問題に関して理論的に各読者の理解を容易にしようとする。

  第三及び第四――天候、風景、及びとりわけ気候とコトバははなはだ捕捉し難い意味を持つ。これらのコトバを積極的に制限するのは、




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すなわち私たちの対象を一つ一つ取り扱うことにほかならず、ゆえにここでは、ただきわめて必要な事の二三を挙げることにする。無学者がある人を指して心的にはなはだ「天気」に左右される人だというときには、その意味は往々二つの全然反対の事実を指示することがある。すなわち一つは雰囲気の情態によって中枢神経系統がはなはだしく影響されやすく、またこれに応ずる影響が心の上に及ぼすことを意味し、二つには雰囲気の情態の知覚によって心情がはなはだしく影響されやすいことを意味している。この両者はしばしば相合致する。けれどもまた、総合に反対することもある。こうして、同一の春日または南国の日にして、しかも一方にはその青き空、輝ける日、緑の野によって「眼」を喜ばせると同時に、一方にはその柔らかき締まりなき湿った空気により「神経」を極端に悩ますことがある。我々は感覚器官の知覚によって我々の心に心的作用を惹き起こすあらゆる天気及び気候の現象を「風景」とし、また組織の緊張と新陳代謝との物理化学的影響によって、神経系統に従って心意組織に影響を及ぼすところのものを区別する。すなわち我々は、地理的環境が我々に及ぼす印象の感覚器官の作用と、地理的環境が我々に及ぼす影響の触覚運動的作用とを厳格に分別し、




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上の作用を及ぼすものを風景と呼び、下の作用を及ぼすものを天候及び気候と呼ぶ。そしてこの区別のはなはだ困難な場合のあることを私は後に述べる。そうは言っても、先づ当面の問題としては、この区別は必ず存在するのであって、けだしこの区別そのものは、それが自然に区別されるような単純容易な場合においてすら、不幸にも通常顧みられることがない。触覚運動の諸影響中、天気という概念と気候という概念とを何によって区別するかは、後に至って定義することになる。ここではただ端緒として次のことのみを確定しておこうと思う。すなわち、私たちの地(空気と土地と)はその温度、その湿度、その組織などが私たちの身体上に物的に作用し、そうしてこれと共に事情によっては、心身的に私たちの精神の上に作用する限りにおいて、私たちの地(空気と土地と)は単に天気もしくは気候であるに過ぎないということ、および私たちがその温度を暖(あたた)かいとして感じ、その光を見て、その運動を聞き、その混肴を嗅ぐ限りにおいて、それを風景と称すという事、これである。そしてこの区別の効果が多きことは、この攻究の進むにつれて明らかになるであろう。



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    三   風土心理学的問題提出の現状。 

さて、私たちにとって風土心理学的事実とは、天気、気候及び風景の私たちへの精神(心意)生活に及ぼす直接の影響をいうものとすれば、爰(ここ)に自ら起こるところの質問がある。曰く、一つの個人的な気分や気まぐれ以上に、すなわち一切の科学的労作、企画の選択によっておこる全く主観的な動機以外に、この風土心理学の問題に立ち入ることを許される何らかの客観的要素が果たして存在するかどうかと。私はこの質問に対して幾分の自信をもって、そうだと答える。私の見るところによれば、理論的に考えるも、実際的に考えるも同様に、このように言うことが出来る。――今や風土心理学的問題の研究に熱心に着手すべきであると。
  なかんずく、理論上の要素はその根本において、私をしてこの研究に進ませる主観的衝動と同じであったことを私は白状する。私が今より六年前、「ヒステリーの心理学的綱要」を公にしたとき、ヒステリー問題の民族病理学の方面と民族病理学問題一般とを、以降数年間、私の主要な研究テーマとなすことを発表した。こうしてその希望は成就したけれども、この問題が複雑紛叫したものであることを了解するに従ってますます明らかになった。十分に民族病理学を研究する上において、第一仮定となる民族心理学の部門の整理、一般に心理学問題の一般的部門の整理を成就することは、


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ただ心理学の特殊的部門をその部門内の事すべてにわたって精細に概観し、それを確実に了解し得る時にのみ可能になることを知るに至った。この部門は第一部門として諸民族の、すなわち、その種族の精神的素質(ある特性の遺伝、病的傾向、変性などの問題もこれに属する)を有していて、第二部門として、自然環境すなわち土地なる生活舞台を有している。要約すれば、私は、社会組織中の精神(心意)生活において、いかなることが社会的心理の事実なのかを見い出す貯めには、先にいかなることが人類心理学的な事実にして、いかなることが風土心理学的な事実なのかをおおよそ知っていることが必要である。もとよりこれら三者は、ともに相並んで極められるべきものにして、一方が開始されなければ、他方もまた従って終結することがない。そうして私はこのように感じる――私が風土心理学の問題を取扱い始める点においてもっとも
遅れていると。もとより風土心理学という個々の研究はあった。けれども、それらの意味を初めて知らしめた、総合関係の概観を欠いたものはなかった。私はまた思う――このことは仮にも現代において尊重すべき人類学および社会心理学上の労作において、一二の知識を有する人に対してはもはや論証する必要はないと。


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風土心理学的研究全体の外観の欠陥を補わんとする企画には、上に述べた理論的興味の外に、さらにまた、はなはだ現実的な実際的興味も加わってくる。もし人類学及び社会心理学の労作そのものが、最近に至って風土心理学的問題に移ったとすれば、(例えば「種族」は空気と土地から生まれたとか、また生まれ得る変種なのかどうか。あるいは、病気と土地は社会生活もしくは民族生活の特色ある運動を規定し得るかどうか、などというように)それは、この研究においてその意味を往々はなはだしく過重視しつつある「論理的」方面に存するのではなくて、むしろその土地という環境がその生物、特にその心意的方面に及ぼす勢力影響をもって極めて重要であるとする意識が現代においてますます高まったという徴候と見るべきである。このような意識は主として文化人の生活様式の実際的変化によって目覚め、かつ進み来たったものである。都市の文明、ことに大都市、世界的都市の文明の躍進と共に、いまや萌え出ずるような、しばしば明白な狂熱にまで高揚する狂乱をもってこの天候ないし風景の諸要素を利用して、身体及び精神の休養に資せんとするに至った。夏季旅行、冬季遊戯、航海、空気療養、気候療養などは、けだしみなこの潮流の現れたものに他ならない。海外旅行、世界周航、外国滞留などは、



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様々な職業に従事する者のしばしば為さなければならない、イヤ、ほとんど通常の事としないわけにはいかない義務となった。未開地方への遠征は、今や単に一私人の冒険事実たるに止まずして、かえってほとんど間断なく国民の公の機関によって秩序的に企てられ催されつつある。海外植民上の活動は、今やまさにこのドイツ民族にとってますますその意味を増加してくる事になっている。けだしドイツ民族は、前世紀最後の二十五年に至るまでは、この事業に着手することなく、ただその唯一の大設計の植民的活動を、その内地すなわちエルベ河の東辺においてのみ為しつつある。加えるに両極地方の開発、航空船もしくは飛行機によってなされる空中の征服は、我々の土地の「所有」に対していわば最後になお、獲得しないわけにはいかない権利を付加したものだという「公の意識」を発生させた。「土地の占領」に向かって前進する時代あっては、常に(事実上、また考えられるように)土地と人間との間の関係に対する関心がこ特に熾烈に燃え立ち来る。要するに我々は今や再び労作と休息とによって生まれてくる一般的「気分」の中に入って行くことになる。その気分はこの関係を一層よく、一層秩序的に打ち立てることに熱中して行き、しかも土地、海洋、空中を占有するに至れる最近の歩みは、



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まさしく合理的――学問的に工夫せられた技術によって為されたもので、その間に立って、人と土地との関係についての知識がいつまでも試験として、また、粗雑な経験として止まり、したがって時代の精神全体に反対すればするほど、かかる知識を獲得しようとする要求はますます増加して行くことになる。
  私は思う。このような時代の気分によって全く自然にこの問題が起こり来る。曰く、私たちは天候、気候、風景が精神ある人間に対してなす影響について、そもそも何を知るか――すなわちそれは私たちがそれについて知っていると、またはおぼろげに信じていることとは全く相反すると。しかるに心意研究はこの問題考察をしてますます肝要なものにしている。けだし、今日においては他の幾多の理論的、とりわけ実際的な刺激よって出てきたその本来の道は、先に述べたように、この問題を実験室内の要素分析の集積から押し広げて、現実的心意生活の広範な領域にまで進ませている。我々は、我々の研究対象が、二重の意味において現実的であると言うことができる。けだし、それは時代精神およびその実行の精神より生まれ、かつ、それは心理学の精神およびその研究作業の精神に対して起こったものだからである。それゆえに、この現実情態を正当に見ようと最初の企てが、もしも不完全なものだとしても、それは自然の事として、




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しかも生活の範囲ならびに探求の範囲をはなはだしく亡失させてしまうことがないことを望まざるを得ない。

  〜
一般に現存する幾多の問題は、その参考書類を指示することによって最もよく見ることが出来るのであるが、本書に関する参考書類の指示は極めで複雑錯綜している。こうした風土心理学上の事実は、おおむね口述的伝承がその大部分を構成し、またたとえ全くそうでないとしてもなお、旅行記、新聞紙の文芸欄、植民地の報告書、浴療場案内などによって証明されるに過ぎない。私はあまねく数多くの文献を所有している。そうして私はそれらの中から、なんらかの基礎的な風土心理学上の成果を見い出そうと願いつつ、これを読みあさったのである。けれども結局、古来言い尽くされた日常茶飯事の憶見(推測や想像に基づく考え)を単に漠然と確かめることが出来ただけであって、満足できるものではなかった。こうした場合に、これを「引用」するのは、ただ笑うべき滑稽を演ずるに過ぎない。これをもって、参考書類の指示はかの民間伝説以上に、少なくとも科学的見地に立った見解が現実の事実として成り立つ事柄についてのみ、これを為すに限ったのである。けだしこの場合、参考書類の指示は読者をして、私の記述をさらに吟味し、かつ、見解の方法論をその箇所において更に詳しく研究するのに役立つところがあるはずだからである。記述された気候学より取り出した一切の報告書は、かのハン氏の名著の依拠している。まさにこの著の熟読玩味は、私が本書の編述に当たって得たもっとも価値多き「副産物」である。



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参考書類の原本中において、ドイツの書類が主位を占めるワケは、あえて述べる必要はない。ただ一言すべきは、私が本書に脚注を添加することによって、本書の美観を損なうのを望まなかったのである。けだし、いわゆる脚注というのは、たくさんの書物において往々過剰であって、一種の付録たるに至り、かくして整理が出来ず主要本文が忘却されてしまうからである。
  上に述べた理論的および主観的衝動は、もとより本書の研究の淵源となった動機を上げ尽くしたものではない。この究極の目的が何かについては、著者は単に不完全な説明をなし得るのみである。ある問題がなぜ生じたかは、なぜに解決を求め迫ってきて、そしてそれが解釈し尽くされない間は、なぜに永久に問題として残存するか。これは著者が十分に答えることが出来ないところである。このような問題を起こして促進する力あるものとして、また一部は感謝の意を表そうと次のことを列挙する。すなわち「芸術における病理的事象」に関する講義の準備として、風景が及ぼす影響の諸因子を比較的詳密に自ら体験的に知る必要があったこと。一般病理学的研究に際して「病理学的」という概念を比喩的に説明し、また曲解して、そうしてますます研究の道筋を困難にしている、かの類推乱用に対して相抗戦しつつ、ラッツェル氏の人文地誌的研究に含まれている類推的な部分を特に解釈したこと、気候療養は半ば聞き流しして良いとしても、往々、医師の診察時間に際しては滑稽に類するほど極端に要求されるということ、私をして精神的作業の周期的特性に関する問題に専心させた「作業の生理学的及び心理学」に関する私の通常の講義、



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クレペリン氏のジャワ旅行によって確実に増加した、比較民族的心理病理学研究の開始、心意生活の実験的分析によって民族心理学を説明しようとする、単に数の上から見るようなヴントのおびただしい試み、その他、なお、単なる半意識の暗黒裡においてなされている数多くの事象がそうである。
  なお、本書の研究に反対する多くの異論もあるが、それは本書研究の完結をまって初めて消失するものとする。




  >  * 注
病理学(pathology)は、病気の原因とメカニズムを明らかにすることを目的とする学問。病気の原因、発生メカニズムの解明や病気の診断を確定するのを目的とする、医学の一分野。細胞、組織、臓器の標本を、肉眼や顕微鏡などを用いて検査し、それらが病気に侵されたときにどういった変化を示すかについて研究する。<




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        第一篇  天候と心意(精神)生活



科学上の定義から見てもまた、天候とはある場所およびある時刻における大気全体の状態をいうものである。しかもこのような概念の解釈は、我々の今日の認識情態にはもはや適せず、それはただ、雨や、日光や、雲や、霧などが天候の全部とされた、かの粗雑な経験にとってのみ適応するものとする。実際、大気は地体に対して、少なくともその最上層とはなはだ密接な、また間断なき総合関係を有し、その双方の状態の動揺変化という点から見ても、いわば全く一つの全体を形成し、その関係はこの大地の諸因子がただ単に、ある時期の大気の状態を現前させる原因となって働くのみならず、(大気との関係がもたらす、これに反する大地の効果は極めて浅薄な観察をしてみても、直ちによく地面の湿気、地面の霜、泉井、地滑り、その他において見ることが出来る)むしろ反対に、一般にある特定の天候形式は単に同時に起こる、大気上および大地上の状態として了解される。しかも特にそのその生物に対する影響作用において了解される。このようにして雷雨の特性は、空気及びその下に横たわる地面の発電状態としてこれを知るときにのみ了解される。



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雷雨が静謐に戻る様式は、大気の状態に依存するごとく、また、大地の状態に依存する。そうだとすると我々は本来、大気上の性質である天候の種類より着手して、漸次連続的に移行していって、種々複雑な現象の中、先ず空気と地体とが同様に参与する状態よりさらに進んで、地体が一層多く参与している状態―例えば「磁気の嵐」―をきわめて、そうして最後に至って、大地の方面が重大な地位を占める―例えば地震―を究めようとする。このように連続的に為すべき「天候」の説明を、ある位置にて任意に中絶させることが気象学的に不可能であることは、私がすでに示唆したところであるけれども、今や我々の風土心理学的問題の提出によって、一層強められたことを覚える。思うに、天候の状況を構成すべき大地の参与部分は、その天候の状況が我々の心意の上に及ぼす影響を決定的に左右し、もしもこれを省みることがなければ、その影響は全然不可解に終わってしまうだろう。
  これをもって、私の研究において、天候をもってある場所における、ある時の大気とそれに隣接する地体の部分との状態全体を意味するときは、私は、ある大気上および大地上の様々な現象における状態全体を対象とすることになる。私はこれを<天候の形態>という。



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これらの諸現象は各々無数の各因子、すなわち天候の要素の共同作用によって構成される。しかしこれら天候の要素は、自らまた、一部は大気的なものであって同時に一部は大地的なものである。ある一定の天候形態は、ある場所においては通則として行われ、これがその場所の「天気の性質」を成すにいたる。しかしまた、そうしてある他の場所の天候形態は、この性質とははなはだしく相違してくる。従来、蓋然的に考えられたところによると、心意生活はその常に接する普通の天候に支配されることは少なく、むしろ天候は、顕著な心意的効果を生ずるものである。とは言っても、もしもある一定の天候が、ある一定の心意的影響を規定するものならば、自ら次のような問題が生まれてくる。そのワケは、これらの影響効果が生ずるには、一つの天候の形式を構成する大気と大地との両要素の全混合によるか、あるいはこれら両要素のいずれか一つによるのかと。このようにして私の研究の道程は示される。この研究は経験がこれを示すように、ある天候形態の及ぼす心意的影響から出発して、天候要素の心意的影響の観察に至り、出来ることなら前者(形態)を後者(要素)によって説明しようとすることにある。



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        第一章   天候の形式


    一  雷雨


我々の研究範囲において、それが心意情態に及ぼす影響が、粗野で素朴な経験でもってしても了解し得るのは、雷雨ほど容易な天候形態はない。とは言ってもそれは、もとより雷雨「劇」が我々の心情に及ぼす感覚器官の――すなわち憂い、または恐れさせ、あるいは束縛し、高揚させるといった――影響や効果を指しているのではない。それは反対に、私がこの「天候」の章で論ずるすべての場合に言えることであるが、かの、前に選びたる言い表しをもってすると、雷雨の「触動的」作用である。まさにこの雷雨の場合には、感覚器官的影響効果と触動的作用との間の区別を、また時々起こる双方の混合を固持するのは比較的単純である。したがってまた教えられるところも多い。「雷雨は見える水蒸気と、聞こえる放電とが共同して起こす凝縮作用」である。こうして雷雨がもたらす感覚器官の作用は、放電そのものの現象と経験によって形成されたその予期とが結合する。これに反して「触動」の作用は、元来雷雨を準備する大気上の作用――その主な標徴は「雷雨蒸暑」であるが――から出発する。こうしてそれは放電の初め、または最中において消失するのが常である。


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私がここで取り扱うべき雷雨の心意的作用は、こうして本来、雷雨が起こる前の天候が及ぼす作用である。
  この作用のもっとも一般的な特徴は、それが気分および一般感情にまで及ぶことである。抑鬱(しばしば不安静を伴う)は恐らく何人も既に久しく経験する、雷雨の心意上に及ぼす作用である。雷雨の時の蒸し暑さの強まりや持続の長さに従って、また他人のこの種の影響に対する感受性の鋭さに従って、この抑鬱は漸(ようや)く加わり、ついに精神は沈鬱し物的ならびに心的諸作為が不可能となり、はなはだしく不機嫌になり、時には消沈し、時には憂愁し、時には憤激となり、痛ましき愁傷、高揚する激高をきたす。かの「一般感情」の茫漠たる変化から、漸次明白に現れ来る心身上の個々の徴候は、前述の作用が強いほどますます明瞭に現前する。すなわちこれを運動的側面から見ると、筋肉の痙攣、戦慄、不安静、および不確実などが現れ、またこれを感覚的側面から見ると、起こり得るあらゆる異常感覚、蟻痒(ギヨウ)、発疹的感覚、羞痒(シュウヨウ・こそばゆい)あちこちに飛び回る性質をもつ「リュウマチス」のような痛みや神経痛の痛み、耳鳴り、目眩(めくら・めまい)、視野の朦朧、種々な眩暈(げんうん・めまい)、咬視(こうし)、頭痛、四股とりわけ膝が鉛のように重く感じるなどがそうである。これを血管運動の側面から見ると、



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心悸亢進(心臓の鼓動が激しくなる)、心臓苦悶、顔面の紅潮および蒼白、脈拍が感知される(例えば目の中や頭蓋の中にて)、といったところに現れる。
  これを分泌の方面から見ると、発汗、またはその乾燥、唾液の過剰、またはその欠乏、排尿の多量、下痢、留飲などに現れる。その他、食欲減退、平常は好悪なき食物に対する嫌悪性の関係ついて言えば、性欲が亢進する、あるいはその能力が乏しくなったり、勃起は増して射精早過ぎ、あるいは遅滞する。このようなこと、及びその他一般に神経系統の過敏、衰弱の際に起こる一切の事象は、雷雨の影響の一部分として現れてくる。こうして睡眠の妨害はきわめて普通である。すなわち睡眠は一般に暖かき季節には浅くして覚めよいけれども、雷雨蒸暑の時にはますます不安静になり、皮相的になり、激しい夢に妨げられやすく、たびたび目覚めてあらぬ思いにかき乱される。普通の状態にあっては、決してこのようなことのない人々ですら、あるいは驚起し、あるいは叫喚する。
  天候より来る幾多の感覚の過敏は、茶、珈琲、ニコチン、ことにアルコールなどの日々の嗜好物に対する抵抗力減少によって鑑識される。この場合。茶と珈琲は普通の量よりも僅少な量でもって、直ちに普通外れの興奮を惹き起こす。




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こうして普通、それより生ずる快感をも失い、これに代わって熱が起こり、心悸高まり、不安静がくる。煙草も平常のような味なく、平常馴れた快感も失せ果てる。アルコールから受ける感受性はそれよりもいっそう顕著である。平常では人をして活発にする、すなわち容易に興奮させる、言い換えると情調を高め、かつ運動の衝動を強める量も、この場合には、あるいは麻痺させて効果のないものに、あるいは過度に激昂させるものとなる。気分は抑圧され、あるいは、そうでなければ興奮させられる。こうして無情冷淡および不愉快な疲労が起こり、もしくはこれと反対に不安静、争闘の傾向、憤怒の傾向が起こる。平常なら睡眠を安静にするほどの量も、今や心を不安静にし、時に恐怖させ、または憂い、あるいは嫌悪すべき夢を見てしまう。特に精神病者は一般にアルコールに対する抵抗力が著しく不安定である。上述のように彼らにあっては、この雷雨時の情緒が、アルコールの影響を構成する不愉快な要素が亢進することによって認められる。あらゆるこれらの影響の諸要素について、きわめて粗雑な自己観察および他人の観察以上に出でて、一層正確なことを知る方法はいまだ知られていない。その観察が何事を成し得るか、またいかなる方法によってその観察を成し得るか、これについては後に至って一層広く大きな関係において語ることとする。


 *注 <「留飲」とは胸焼けなどがして口内に胃液などが逆流したりする症状>



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けれども、その作用が際立って顕著で、観察が極めて容易なように見える箇所においてすら、すなわち精神病の天性の者を観察するにおいてすらも、雷雨の感覚器官へもたらす影響が混入することによって、たびたびその観察が困難になり、こうしてついに全く希望なしに至ると考えるのは誤解である。先決問題は、一般に「神経質的であること」(この語は一切の軽微な心意的異常性を表す総括名として、いまなお俗人によって使用されている)と、雷雨の感受性とは必ずしも常に比例しないということである。私自身がかつて親しく観察した人々について言うと、みな多少の個人的な差異はあるけれども、はなはだ興奮しやすく敏感であるにも拘わらず、しかも雷雨(また一般に天候)の影響を受けることの比較的、はなはだ鮮やかな人もいる。しかしまた、世間にはしばしばこれと反対の者もなきにあらず。すなわち、このような人々にあっては、天候の感受性が実にその有機体が持っている異常な反応感受性の唯一の強く激しい表現となっている。けれども概して「お天気者」は一般に異常的にして、また異常者は一般に「お天気者」というのはもちろんである。




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[    私はここに、一つの場合に思いが到達せざるを得ない。その場合が私をして有機体の一般的衰弱によって、天候に対する敏感性が起こることを、ほとんど実験的に確実に認識させたのである。その時までは少しも神経質なところがなく、また少しも天候現象によって煩わされることのなかった紳士がまったく突然に、かつ明らかに認められるような原因もなく、神経質的な障害(目眩い、頭痛、興奮、不眠、思考集中力欠乏、視力減退など)に陥ったのである。それと同時に天候の急変、ことに雷雨蒸暑が極端に激しく彼の心を悩まし、恐ろしく気づかわしい激昂と強烈な感激性とが、あらゆる異常感覚とを相伴って皮膚の表面に、また頭の内部に現れ出てきたのである。久しく試みた治療も無益に終わったのであるが、その後、偶然の出来事によって上顎腔にまったく軽微な化膿が存することを発見したのである。膿は穿刺(せんし)法によって排除せられ、そうして膿傷は自ら癒えたのであるが、この膿が排除されるや直ちに一切の痛みが去って、再び発症しなくなり、天候に対する敏感性も癒えたのである。この場合、有機体内に膿の生ずることが明白に一般の組織薄弱を惹起したのであって、このような組織の一般的薄弱は神経質として、また天候に対する敏感性として現れている。
  これと相応して外的な原因によって神経衰弱に陥った者が、重い疾病の後に、または老齢その他のためにいまだかつて知ることのなかった天候敏感性、特に雷雨敏感性の起こり来る事実を観察したのである。  ]


  神経質の人は、一般に感覚器官の敏感性、もしくは恐怖、憂悶の情――神経質な人はみなこれら三者の中のいずれか一つはたいがい持っているが――は、それと同時に次のようなことを随伴している。

*注 <穿刺法とは、中空の針を体に刺して内部の液体を吸い取ること>



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幾多の天候現象、とりわけ雷雨の開始のようなときは、それによって惹き起こされる感覚器官の印象によって、またその経験が度々繰り返された後には、単にこの感覚の印象を予期するだけで、早くもすでに心意の情態を変化させてしまう。この情態は単純で軽微な不快なものから更に進んで、極度の憂怖にまでも変化することがある。雷雨時の憂怖を観察すると、それは雷鳴の触動的影響より起こる憂怖状態と、雷鳴の感覚器官的影響によって起こる憂怖状態との、両者の間に存する差異を教えると同時に、また他方においてその間で度々起こる因果的連関についても教えるところはなはだ多い。


  [  雷雨の憂怖は、他の種類の憂怖状態と極めて密接に連絡し、ただ一つ孤立して全然他と離れたカタチの雷雨の憂怖などあり得ない。一つの対象から起こるすべての憂怖と同様に、この雷雨の憂怖もまた、主として心配性の人々の間で多く起こる。こうしてその人々の憂怖することが、たとえ将来起こり得ること(疾病の恐怖、鉄道の憂怖、その他に関するもの)、あるいは嫌忌すべき面も予見できない印象(クモやネズミについて起こす憂怖)に関するものも、それは問うところではない。また、憂怖の諸性質がいくつか結合している場合も鮮やかではない。ハッキリしない。例えば雲の憂怖、軌道の憂怖、雷雨の憂怖などが互いに絡み合って起こることもある。



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時としてまた、それらの中のある一つが勢強く前面に現れ出てきて、他のものは単にその徴候が存するのを示すだけものとなることもある。教育の影響および偶然の印象などは実際憂怖の程度と方面を決定する上でハッキリしない(鮮からざる)意味を持つ。一切の憂いと恐れの状態が性的関係に起因することを証明しようとする近頃の企てについては、ここで深く論評することはできないけれども、その説明の方向は以下のようである。――男性に触れない女性および性欲的に神経質的な男性においては、憂怖と性欲とは一種の自然的因果的に混合すると言われる。しかしまた、憂いと恐れの状態は性欲が満足されない人々の間では特に顕著であって、この状態はおおむね、性欲の満足と同時に消滅するというのは正当である。けれども性欲の不満足は、幾多の解放されることのない興奮の集積をもたらすが、その集積は何らかの偶然の出来事によって解放されたときは消滅する、という説はなお疑いの余地がある。しかし、このような興奮は常に必ず「憂怖すべき興奮」の性質を取りやすく、恐らく我々にとって異様なもの、もしくは十分にその理由が明らかでないものは、すべて我々を憂怖させるものだからである。かつては健康であった人があまりに努力奮励した結果、疾病に陥った神経衰弱者にあっては、彼ら自身の動機から出たのでない興奮によって生じた憂怖の色彩は、その興奮の原因(消化不良、過度の会話など)が彼ら自身に了解されるや否や直ちに消滅し、あるいは著しく緩和されるのは我々がよく観察するものである。神経の衰弱した人にあっては、あらゆる種類の興奮、特にあらゆる脅迫、不機嫌、不安静、懸念などが変じて憂怖となるのは極めて明白な事実である。

<「ヒポコンデリー」。ちょっとした身体の異常を、自分で勝手に判断して気に病む精神病的症状。心気症>



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  そうした理由からこの現象を考慮すると、雷雨の憂怖の心的発生の経路を了解することは容易である。その基礎は上に述べたように、雷雨が起こる以前の天候が及ぼす一般的心意的影響に存している。雷雨に関する新聞の報知によって養われた、生命の危険に関する思想、および暴風雨発動そのものの感覚器官からくる恐怖(この暴風雨の生起は素朴な人々のみなが恐怖するところであって、これに惑わされないのは自分をコントロールできる習慣ないし危険がそれほど重大でないことを知り尽くしていることによって初めて望み得ることである)は、抑鬱、不安静などと相伴う憂怖状態を、さらに顕著な憂怖とするものである。このように様々な原因となるべき諸要素の結合がますます多様となるにもかかわらず、しかもなお誤解して、これら諸要素の両端に唯一の原因より生じる、雷雨憂怖という比較的純粋な諸形態が存するというのは、全くの誤解である。すなわち一方には、ある種の雷雨憂怖者があって、その人々にあっては憂怖の本質を成しているのは、単に憂怖は色彩を持つ雷雨に対する不機嫌だけであって、しかも全然正確に順次変わっていって、雷雨の起こる前において、憂怖が最高頂に達し、そうして雷雨の開始によってその思いが高まることなく、かえって鎮静することがある。こうした一団の人々は、そうしたわけで、われわれがここで観察する場合の中に入る人々である。にもかかわらず、他方にはまた別種の雷雨憂怖者がいて、この人々にあっては、雷雨開始前における天候の様々な作用には、さほど特別な影響を受けないけれども、これらの人々の憂怖は雷雨が近づいてきて、その徴候が見え(または聞こえ)始めた時(雲の起こること、遠雷のとどろくこと、遠くに電光の閃くなど)に初めて起こってくる。



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こうして終いにこれら諸徴候の消滅するときには、「雷雨模様」はなお依然として残っていても、憂怖は消失して再びその影を留めることがない。この際「触動的」に起こってくる憂怖が作用しているのではなくて、むしろ電撃の危険に対するヒポコンデリア的な恐怖が作用するか、もしくはすでに幾度となく感覚器官が雷雨の憂怖を経験したために、次第に高まってくるその恐怖がついにただ、雷雨の徴候を見ただけで今だ真に開始されてもいないのに、これに先立って起こってくるものが作用しているのである。この際に特徴となる形式は、イナズマに対する危険が減少し、安全が増加して来るにつれて、すなわちイナズマおよびカミナリの印象が微弱になるにつれて緩和される。――従って、例えば森林または荒野の中よりも、大都会の中もしくは一般に都会の中において、または家の中において――ますます緩和されるものである。触動よりくる憂怖は真正な天候の所産として、このように安全となったり、または微弱になることがなくこの憂怖は徹頭徹尾、雷雨模様の所産なのである。

  ここに叙述した関係を考えると、雷雨の作用からくる諸形態にあっては、憂怖に含まれる触動的な部分と感覚器官の部分とを分離することが不可能なことを了解するに至る。そうした事情から、心意の作用を時間的に区分するのは、最も確実な立脚地となる。



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にもかかわらず、感覚器官の効果は雷雨が近づくにつれて向上し、その開始と同時に最頂点に達し、そしてその終息と同時に消滅するものなのであるが、他方、触動的な効果は常に必ず開始と同時に、もしくは少なくとも大気の状態が変化して、最も知れ渡っている徴候としての冷却をかもし、このようにして往々その大きな開始前に、早くも暴風を起こすか、またはその開始と共に雨を起こして同時にそれは消滅する。例えば、誰もがよく知っているように雷雨蒸暑の際には心意的に非常に卓越した忍耐力を現し、しかも雷雨が開始すると心から悦楽して、この天然界の演劇を何ら恐れることなく興味をもって観察するという人がいる。こうして感覚器官的な範疇に属する憂怖者が、電光も、雷鳴も止み、晴天明朗となって、はじめて自分の心の落ち着きを恢復するのに反して、触動的影響をこうむる範疇の人々は、きわめて優しい感受性を備え、この雷雨がはたして大気の全範囲にわたって終結するかどうかを懸念する。雷雨がいかに激しく荒れ狂うとも、天候がいかに晴朗に回復しても、彼らはこれに欺かれるということがなく、なお天候の状況は雷雨の蒸暑が依然として続くことがあるというのを知っている。それは彼らの心意の状態が彼らにこのことを指示するからである。
  このような感受性は、この感受性を有する者に向かって、電気放射がまだ少しも認められない場合においてすらも、



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すなわち第一に、この放射がはるか遠い場所で起こっている場合、そして第二に、いわゆる雷雨均衡という現象が起こっている場合においてすらも、その場合の雷雨情勢というのを理解している。思いがけない天候の湿潤、逓雨、驟散(にわか雨)、降雪などをこれに数えることが出来る。このような場合においては、おおむね電光および雷鳴からなる雷雨の進行だけに関わることなのかどうかを、気象学的に区別することは恐らく困難である。この問題に関しては、もとより私は確固たる答えをここに示すことが出来ない。けれどもただこの場合において、触動的な雷雨作用が明瞭に作用し得ることだけは確固たる事実である。

驟(シュウ/うぐつく・うごつく)


    心意上、雷雨が一定の疾病状態に及ぼす影響については、癩狂院での観察を除いて、一般的、不常規的、心意的感受性として記述されたもの以外は何も知られていない。例えば、鬱幽病者は不安静になるか、または一層はなはだしく抑鬱状態に陥る、といったようにである。

  雷雨が過ぎ去った後に来る快感の高まりは、だれも拒む事のできないことであるが、これは一部には、すでに過ぎ去った雷雨気分に対する単純な反動として起こり、



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また一部は、ある一般感情の積極的高揚から起こってくるものである。そしてこの高揚の諸原因を天候が有する個々の諸要素の条件下、および感覚的な諸作用の条件下において観察しようと思う。
  要するに、一般に動物に対する天候の影響は、昔から人類の場合と同じく、よく精密に研究されてきたが、動物に対する雷雨の作用についてもまた、人類の場合と同じく極めて多数の問題がある。それらの大部分は、実際、夏期の日々の観察として誰もが知るところである。もちろん、このような観察に際してもまた、私たちは暴風雨進行がかもしだす感官(以下「感覚」と訳す)的効果によって、これをおしはかって知ることになる。そしてまた、こうした推察を動物においてより一層よく適用する。なぜなら、こうした動物、とりわけ雷雨に感じやすい動物の多数の、真に原始的な心意情態においては、雷雨が始まる以前の天候状況の触動的効果と、雷雨が起こる時にもたらす「感覚的」効果は、それぞれ独立に作用するのは人間よりもいっそう際立っているからである。とは言っても、以前に経験した雷雨の回想が、現に雷雨が始まろうとする前に高まってくる興奮に対して、多少の影響を及ぼすことは、動物においてはほとんど考えられないからである。



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  雷雨が起こる前、それどころか、それよりかなり前の段階でも、多くの動物が態度を変えることは、人類におけるよりもなお一層、天候による純粋な触動的作用の表出として見ることが出来る場合がある。けれども我々は、また単に間接的な天候の作用による態度があることを明らかに見ることが出来る。すなわち魚の跳躍(これは雷雨の前には平常より濃密に水面上に集合している昆虫などが原因である)、またモグラが土を掻き起こすこと、昆虫を食う鳥が低く飛ぶなどのことは、単に、エサとなる虫類の天候感受性を示しているのに過ぎない。
  これと共になお、多数観察される事例があるけれども、それらはいずれも雷雨感受性の強さの徴候という以外に何の意味も持たない。それらの中で最もよく知られているのは――猫は非常な不安静を示し、食わず、眠らず、ネズミも鳥をも捕えようとせず、非常に敏感になる。リスは何の意図もなくみだりに激昂して跳び回り、かつ、笛のような叫び声を発する。この叫び声は、普段でも非常な激昂の際にするのと同じものである。メス鹿もオス鹿もこれと同じようなことをする。無数の鳥は単に低く飛ぶ(これは間接の影響である)のみならず不安静に、忙しそうに憂わし気に鳴きながら、たちまち短い声を出してかなたこなたへと急に飛び回る。さえずる鳥は全く沈黙するか、そうでなければ切れぎれに歌い、あるいは奇異な声で鳴く。



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いつもは不活発な縞泥鰌(しまどじょう)は不安静に水の中を駆けまわり、激しく泥土をかき乱す。また、食べ物を求めようともせず高く水面上に跳びだす。昆虫の膜翅類(まくし・ハチやアリのたぐい)および双翅類(熊蜂、ミツバチ、黄蜂、馬蠅、蠅、蚊などのたぐい)は、彼らの潜伏所の近くに停止し、うるさく、わずらわしく、そしてことさらに凶悪になる。このようなあらゆる行動変化の特徴は、これらの変化が、雷雨よりもよほど以前にすでに見え始めるものであって、気象学による正確な断定が、天候状況の本質的変化を表す以前に、すでに現れているのである。精神病的な人々は同様に、最初の明白な雷雨の徴候をしばしば幾多の時間以前にすでに予見するのであるが、これらの動物はこの関係においては、これらの人々の雷雨感受性をはるかに超えている。

      民間信仰において、偶然の観察を無批判に天候の規則の中に引き入れたために、学問の世界に合理主義的反動をひきおこした。そしてこの反動が著しく拡大されて、終いに動物が持つ特殊な天候感受性をも否定することになったのである。これに比べて、昆虫が持つ天候感受性が示す間接的な出来事だけは、比較的にすぎないけれども今なお歓迎されている。しかしこの場合、例えば、「昆虫が雨滴のため直に地面に打ち付けられるのを経験した結果、この動物の中には、


      *注 <五月蠅(さばえ)は夏の初めにうるさく群がる蠅のこと。雨が降る前にツバメが低く飛ぶのは餌としている小さな昆虫が低く飛ぶためで、その虫が低く飛ぶのは湿度などに反応している可能性があります。雨の前に魚がはねるのも水面近くに虫が飛んでいるのではないかと考えられる。>


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このような危険を避けようとして、雨が来るのに先立って身を地面に密着させようとする本能が発達した」という説明でもってこれを、すなわち「天候感受性」を葬り去ろうとするならば、この説明は第一に、、昆虫の心意に反省能力を有することを想定してこれを取り扱っていて、合理主義に反して神秘主義を尊重するものであって、第二に、こうして自分でも自覚することなく無意識に想定した前提でもって、目の前の問題をすでによく知られた、どこにでもあるような当然の事柄として説明しようとしている。なぜなら、もしも昆虫がこれから降り出す雨を、その前に予知するという事実が存在しないならば、どうしてこれら昆虫が雨に対してその身を守るということが事前にできるだろうか。民間信仰が疑いもなく幾多の迷信を有しているという事情から、それを無批判的に排斥するという傾向は、ドイツの学界では特に顕著である。ドイツ浪漫主義がことさらブ高翔(こうしょう・高く飛びまわるさま)し過ぎるのに反して、ドイツ合理主義はあまりにも平凡に流れる傾向がある。数十年前の医学はこうした弊害があって、しかしまた今日の気象学がこの弊害に陥っている(月の作用に関する章の参照)。もちろん、こうした研究は何らかの超自然的な関係や能力を認めようとするものではない。けれどもこれは明白に説明もされず、また我々にとって表象することのできない事実を説明しようとするのである。この点において、ラルフ・アーパークロンピーのような研究者の態度は大いに効果がある。彼は醇乎(じゅんこ・まじりけがないさま)たる愛をもって一切の民間の習俗の諸規則を研究し、それらの中の迷いと真とを分別し、そうして諸観察の中に潜む現実的な説明の道を開こうと努力している。

  ここにおいて我々は様々な動物が、雷雨の到来に際して非常に早く、かつ、強い心意的反応をもっていて、



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また動物の行動をいかに控えめに説明しても、我々が見ている現象が本来人間におけるように抑鬱と激昂との混合が、ある時は抑鬱が勝り、またある時は激昂が勝るといったように表明されるとすると、、果たしていかなる感覚がこの動物に対して我々人類、特に都会の文化人よりもとかく卓越する感性を与えているのか、という問いに答えるのがとても困難になる。しかしこれに先立って注意しなければならないのは嗅覚と一般感情である。様々な動物の嗅覚世界、彼らのその質的な差異、特に嗅覚による明瞭な空間的局所認定がいかなるものかは、実に我々の想像が及ばないところである。大気中の電気の状態および湿気の状態に対して嗅覚が作用するかどうかということが、また問題になる。雷雨天候が持つ、以上二つの電気状態および湿気の状態ならびに他の諸要素に対する嗅覚の痕跡は人類にも今なお存在している。(触覚ないし生理がそれ自体で電気や湿気などを感じている?)また、触覚や筋肉の神経と生理もこれに関与している形跡がる。こうして恐らく後に研究すべき「未知の」天候要素の作用もまた、動物においてこれを見ることが出来る。

        これらの研究における一切の動物心理の観察は、暗黙のうちに次のような仮定を基礎にしている。すなわち動物の身体的現象は、その原因としてあるいはその影響として心意的現象と相連関しているということが、これである。
    


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これに反する見解に対しては、心理学を科学として可能であると考えて、そうしてその科学的研究を継続している者にとっては、ほとんど反発の余地がない。なぜなら、動物の研究から一切の心理的事象を排除するのは、これすなわち科学一般、ならびに人類から心理事象を排除してしまうからである。私は今日、その外観がすこぶる正しそうに見える心身的並行論の思考原理を引用する立脚地は、もはや科学哲学上のざれ事に過ぎないと信じている。
  動物の行動を心理学的に解明するに当たり、いかなる程度まで立ち入るべきかについては、人々は哲学上、同じ根本見解を有しながら、その意味においては著しく異なっている。けれどもこの論文の攻究は、この点についてはほとんど何ら論議の余地がない。なぜなら、この論文の研究事項は、最も普遍的な心意現象上の事に制限されているために、進んで深く昆虫の行動までも究めることが出来ないからである。



      二  南風(フェーン)とシロッコ


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      <シロッコ(伊: scirocco、英・仏: sirocco)は、初夏にアフリカから地中海を越えてイタリアに吹く暑い南風(あるいは東南)である。 サハラ砂漠を起源とする風で、北アフリカでは乾燥しているが、地中海を越えるためにイタリア南部到達時には高温湿潤風となり、時に砂嵐を伴う。非常に湿度が高く,高温な風で雨を伴うことが多い。>

・上空に行くほど気圧が低いので、上昇する空気は膨張して、気温が下がる。    
これは、熱の出入りの無い、「断熱変化」と呼ばれるものです。気体が、(熱エネルギーをもらって膨張するのではなく、)外部の圧力の低下により、断熱的に膨張するときは、その気体の温度は下がります。膨張というのは、気体自身の圧力で外部の気体を押しのける、すなわち仕事をすることになります。他から熱などのエネルギーをもらって仕事をするのではなく、自分自身の内部のエネルギーで仕事をするわけですから、自分自身の持っているエネルギーは減少します。気体の場合は、それは温度の低下としてあらわれる。

・、太陽の熱は、直接、地球の空気をあたためているわけではありません。一度、地面をあたためて、その照り返しの熱で空気をあたためるというしくみになっているのです。つまり、大気は、地面に近い下の方から、あたたまるというわけです。山の上は、空気の圧力が低くなるので、温度が下がります。しかも、空気は下の方からあたたまってきますから、山の上は、どちらにしても寒いということになる。

・空気中に含まれる水蒸気が凝縮する際には熱を放出させる。これを凝縮熱という。山の斜面を風が上昇すると空気は冷やされるが、湿った空気の場合は、凝縮熱の作用により温度が下がりにくい。一方、山で乾燥した空気は、下降に従って温度が上がるが、山を昇るときよりも温度の変動幅が大きい。このため元の気温よりも高くなる。

・フェーン現象は乾燥した空気が上昇する時に気温が下がる割合(乾燥断熱減率)と湿った空気が上昇する時に気温が下がる割合(湿潤断熱減率)の差により起こります。

・空気中に含まれる水蒸気が凝縮する際には熱を放出させる。これを凝縮熱という。山の斜面を風が上昇すると空気は冷やされるが、湿った空気の場合は、凝縮熱の作用により温度が下がりにくい。一方、山で乾燥した空気は、下降に従って温度が上がるが、山を昇るときよりも温度の変動幅が大きい。このため元の気温よりも高くなる
       (気圧の関係で下降する空気は気温が上がる。しかし上昇した時は、プラスの凝縮熱の気温をそのまま保持していて、その分だけ頂上付近の気温が高く、それがそのまま下降してきて気温の上昇となる。下降時にはマイナスの気化熱は発生しない。凝縮熱の有無、すなわち湿気の有無が上昇と下降時の気温の差として現れている)

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    ヨーロッパで最も知れ渡っている「熱風」、すなわち南風(フェーン)とシロッコは、その言葉の使用上、しばしば交錯し置き換えられる。実際この両者は、強烈な空気運動と、先立つ気温状態に比較しての高い気温との結合である。しかしまたここに根本的な違いがある。「南風」は、乾燥した水蒸気に乏しい気流であって、山から谷へ吹き降り、そうして多くの場合、南風、南東風、または南西風であるが、原理としては少しも天の方位に関係することなく、



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こうして時として「暑い北風」としてさえ現れることがある。それなのにシロッコは、南ヨーロッパをたびたび訪れる暖かく湿った水蒸気の多い南風(南東、南西風)である。シロッコの吹く地方においては、これをもって風多く蒸し暑いあらゆる天候、言い換えると一般のあらゆる蒸し暑い天候の唯一の原因と考えられている。
    この両者の違いを見て、従来人々は、こうした両者の作用に共通点は少しもないと思い込んでいた。一般に乾燥した気流と湿った気流とは、生命とその神経組織に必ず相異なる物理的影響を与えるというのは、ありふれた古い考えである。しかしながら経験が我々に示すところによれば、無風状態での乾いた熱と湿気ある熱とは、全然違った作用を生み出す。にもかかわらず、これに反して「南風」及びシロッコの及ぼす心意的影響について、今日観察し得るところによれば、何らの差異も認められない。人類間にこのような価値ある差異が少しも知られていないというのは、他のアルプス地方、およびその付近一帯の地において、「南風」とシロッコの概念が、一般に混雑しているということからも明かである。もしもその影響が違っているならば、その原因もまた分けて考えられなければならない。



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これら両風の影響は、本来、雷雨時の天候の影響と同じである。それは抑鬱と不安静との混合において現れる。場合によって一方の要因が強くなり、また場合によっては他方の要因が勢力を得て、個性と天候の状態との異なるにしたがって、その度合いは千差万別である。すなわち全然無感情の状態から、あるいは激烈な激昂の状態に至るまで、すべての容態が観察される。精神衰弱者は、先天的なのか後天的なのかを問わず、この影響を最も鋭敏に感じ取っている。南風もしくはシロッコは事情によっては、それが吹き来る数時間前から引き続き彼らの「肢体」に染みわたっている。その第一の徴候として今まで快活だった気分が意気阻喪に、落胆に、苦悩に、恐怖に、不安に変わるといったことが珍しいことではない。こうして結局、我々が雷雨の節において述べたような一切の現象が引き続き起こってくる。こうした状態は熱風がその威力をふるうあいだ、その頂点に達している。健康で、その他においては天候に無頓着なひとも、南風特にシロッコの作用に対しては避けることが出来ない。一種の失望、作業嫌忌、不安眠、食欲減退は誰をも襲う。ローマの諸地方において、こうした経験は人民の性格から見て、はなはだ喜ばしいことにもなり、またしばしば忌むべきものともなっている。シロッコはこの地においては、



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一切の業務放擲に対する弁解理由となり――人をして疲労衰弱させるため、また、幾多の蒸気を逸した発動、特に色欲的発動の弁解理由となっている――人をして興奮させるため。

      私がうわさに聞いたところによると、イタリアの僧侶裁判所において、性欲上およびこれと相関連した、例えば嫉妬から出た暴行が、その行為の際シロッコが吹いていたという理由から、たびたび軽く罰せられ、あるいは釈放されたと。これに対する文献的な資料を見い出そうとドイツおよびイタリアの刑法学者に尋ねたけれども、ついに明確な答えを得ることができなかった。けれども、このように提示しておけば、それが事実か、それとも作りごとに過ぎないかを確かめるのに効果がある。
    南風が度々訪れるインスブルックにおいては、その期間、ブロム(錠剤?)が盛んに売買される。実際、多くの人々が、かの熱風がもたらす不安静と圧迫されるような気分との混合には、ブロム錠によってことさらによく緩和される。もとよりアスピリン、フェナセチン、ミグレニン、アンチピリン、カフェインなどの使用もまた少なくない。これが数多くの神経質者がブロムよりも一層好んで用いる薬剤となっている。
<*注 ブロム(臭素)化合物で鎮静・催眠作用をもつものの総称>
    けれども人類にあっても動物にあっても、食欲不振ならびに動物の不安静の説明として、間接に作用している「南風」を無過ごすことはできない。乾燥した温暖な風が粘膜に及ぼす強烈な乾燥が彼の味覚と嗅覚を減損させる。




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嗅覚の減損によって犬のような嗅覚の敏感な動物は自制心を失うに至る。彼らは憂怖し、激昂し、混迷する。「南風」の乾燥力は実に偉大にして、それが継続する間は、アルプス山地の住民の木造の居宅においては、点燈焚火することが官命によって禁止されている。





ドルトンの分圧の法則によれば、混合気体の圧力は各成分の分圧の和に等しい。

「湯気は液体」、「水蒸気は気体」です。 ... 沸騰した水は、まず目に見えない気体の「水蒸気」となって口から吹き出し、熱い水蒸気がまわりの空気に触れて冷やされ、目に見える細かい水滴になったものが「湯気」となります。 気体の状態では、空気のように人間の目には見えません。

空気が含むことができる水蒸気. 空気が含むことができる水蒸気量(水蒸気圧)は、限りがある。その限界まで水蒸気を吹くんだ状態を飽和状態という。そのときの水蒸気量を飽和水蒸気量といい、1m3の空気に何gの水蒸気が含まれるかで表す。

飽和水蒸気圧は、水蒸気の分圧として求められる。したがって、水蒸気が100℃の時1気圧になるということは、水蒸気だけで1気圧になるということです。
飽和水蒸気(圧)、は温度の上昇と共に放物線を描きながら加速度的に上昇する。

湿度とは、空気が水蒸気を含む度合をいう。普通、その温度で含みうる水蒸気の最大量を、これに対して実際に含んでいる水蒸気の量の割合(%)で表す。

「露点」とは、空気が冷やされて、水滴ができ始める温度のことでした。
このとき、空気中の水蒸気の量が飽和水蒸気量と等しくなっています。

100℃となると水は沸騰し液体と気体の区別がなくなる。ここで飽和蒸気圧が標準大気圧と同じになり、100%の湿度(蒸気圧)だと水蒸気だけで大気圧を占有し全く酸素が無くなります。






      三  蒸し暑い。
高い気温と、強い湿気と、空気が少ない動揺とが混合した状態を我々は「蒸暑」と名づける。したがってこの天候の形態は、少なくとも粗雑な知覚を標準として測れば、軽いシロッコおよび雷雨前の状態と同じである。したがってこの蒸暑の作用は、これら両形態が与える作用とよく似ている。ただその異なるところは、「蒸し暑さ」の作用が両者の作用よりも、倦怠と無感情が主に支配しているという点である。蒸暑の人をして激昂させる作用は、常にまったく消失するという事がない。それは、ほとんど常に睡眠の不安静を惹き起こすということに認められる。けれども、身体上および精神上の、作業能力の減退がその主要なものとなっている。そうしてこれが無感覚的な疲労に終わるということがある。このような状態が頂点に達した時には「熱病」と呼ばれるような、疾病現象が起こることによって観察される。この病は、我々が蒸し暑い天候の人類に及ぼす影響について詳細に研究する場合の資料となるものであるが、これは実に蒸暑の際における肉体過労の結果である



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    蒸し暑い日々が長く続く場合の影響については、気候の作用を論ずる章でまた述べることにする。ただし、蒸し暑い天候が必ずしも一切の人々に対して、上述のように作用しないことは特に興味のあることである。むしろ私は、しばしば上述のような蒸し暑い天候の際には、精神高揚して愉快に感じるような人々にも出会ったことがある。このような蒸暑の作用は、二通りの人々がいるように思われる。――第一は、幼少時代から蒸し暑い気候になれている者であって、また彼らは、比較的粗野な一切の天候形態に対しても馴れている。彼らにおいては寒冷あるいは風などがもたらす感覚器官の不愉快もまた幾分か影響する。第二は、一切の刺激に対して過敏に、また同時に、おおむね貧血で神経質な人であって、彼らはほとんど常に平安な平均した生活条件を必要とし、あらゆる変化に対して激しく反応する。彼らは経験に従って、決して急激な冷却ならびに皮膚に対する強い刺激を受けるのを好まない。しかしまた、このような「矛盾する」蒸暑反応を有する人々は常にきわめて少数である。



    四  降雪

    雷雨模様、熱風および蒸し暑き天候は、一般に蒸暑という要因によって、少なくとも圧迫するかのような気温を伴って互いに連携している。従って表面に現れるところによっては、彼らが示す相似たる心意的影響は非常に理解しやすい。さらに詳細な分析の思索は、ここに重大な困難に遭遇するといっても、これらとは全然無関係な一つの天候形態があるように思われる。



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この形態は、それが無関係のように見えながらも、その効果において、これらとことさら密接な共通点をもっている。すなわち大量の降雪に先立って多くの人々は、興奮の徴候と混合した明瞭な沈鬱を示す。これは、私がすでに繰り返しその特徴を示した、かの沈鬱と非常によく似ている。この圧迫された気分は、憂いと恐怖を含み、かつ不安を伴い、食欲は減退し、睡眠は浅くなり、業務に倦怠を覚える。こうした人々の数は、かの雷雨模様または南風の影響をこうむる人々よりも少ない。この状態は多量な降雪の始まると共に消滅し、そして降雪が終わると共に特に善良となり、あたかもまさに雷雨の後のように、重荷を降ろしたような精神状態が生ずるのが常である。

     降雪に先立って天空はことに陰鬱な灰色を呈するが、これは恐らく風景からくる印象の影響が作用していると考えられる。けれども私は、私が受けた印象は、このような説明に反するという事を白状する。すなわち、睡眠妨害が著しく特徴的であると日記に記載されている。例えば次のように。うす暮れに沈鬱な気分が起こり始め、こころよい快適な睡眠を取ることが出来ず、興奮して不愉快な夢が続く。こうして混乱した覚睡を伴う。こうして窓から眺めて始めて雪が深く積もって、すでに数時間降り続けたことを知った。



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しかしまた、このような作用は触動的な性質の人にとってもまた著しい。そうだとすると「雪空」、すなわち降雪の前の空気の状況は、上述の印象の影響に左右されにくい人々にとってもまた、一つの感覚器官に影響するほどに重く、だるい性質を具体的なカタチで備え持っている。そして人類はこれを非常に詳しく知ると共に了解していて、ここにおいて、たびたび「空に雪がある」と言う。これはしばしばリューマチスのような、神経痛のような、痛風のような疾病を惹き起こすということ、および時として、その気温が比較的穏和なことを常として、著しい蒸暑の特徴をもっている(冬の蒸暑)。おおむね雪は零度の辺りから、普通、零下一度ないし一度の間で降る。また、大降雪はしばしば電光および雷鳴と相混じって起こるという事実をも我々は注意しなければならない。そしてこれが風景による影響でないという事は、雪が降り始めるとともに、沈鬱な感じが消滅するということからも明白である。この間、天空はなお長い間灰色を呈しているが、それはともかく、降雪の印象が情緒をさらに複雑にする。


    <感官的→感覚器官的→三通り考えられる。
・感覚器官がもたらす直接の感じ。
・かつての経験が何らかの印象と結びついている場合、これは無意識の観念の世界である。
・繰り返された馴れと習慣による条件反射の世界。無意識の世界の根源となっている。  
・以上の三通りが絡まってできた感覚的な情緒の雰囲気と、個性的な感性の世界。
・いわゆる「触動的」というのとは区別される。触動的というのは直接的な神経と生理の反応であって、意志や感覚や観念とは別の、意識や感覚の届かない世界である。 それが自分自身の肉体内部の神経や生理の作用として伝わってくるのである。 >



      五  一般天候の変化

関節炎、リュウマチス、神経痛などに悩める人々は、すべて天候の状態の変化につれてその痛みが増加し、あるいは減退して、そうして激しい反応を起こすというのは、一般によく知られている。正常の人にあっては、天候の変化はただ間接に影響するか――雨傘を持たぬ人、または収穫しようとする人が天候は快晴であれば喜ぶ、といったぐい――、または感覚器官的な印象によって、多少影響される。



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「お天気者」にあっては、この感覚器官的印象が著しく強烈で、そのために日没すればたちまち沈鬱になり、あるいはこうした天候の変化に対して、触動的にも著しく感受的となる(この後の場合、つまり触動的な感受性については本章においてのみ攻究する)。とにかく天候変化の単純な場合には、その影響が感官的(以下「感覚的」と訳す)に来るか、または触動的に来るかというのを区別するのはとっても困難であって、その困難はいままで述べた天候形態の場合よりも一層著しい。触動的な影響が存在するときは、ただ感覚(器官)的影響がほとんど除去された時だけということもできる。この場合たとえば、いまようやく雲が起こって空を覆い始めたばかりとか、あるいは窓掛(カーテン)が垂れ下げられたままの北向きの窓側にて、いま目覚めたばかりとか、あるいは最後に、触動的作用が感覚的作用に直接反対して起こるなどという場合は、そのいずれにおいても言えることであるけれども、この最後の場合はもっとも信用できるものである。けれどもこのような場合は、それほど珍しいことではないけれども、我々が想像するほどたびたびあることでもない。
  天候に感動しやすい性質の人々は、良好な天候が不良になることを、それがいまだ明瞭に感覚的現象に現れる前に、自分自身の気分の変化によってこれを認めている。しかしながらこうした気分の変化は、本来、上に述べた天候の影響が一層弱く希薄になった場合の形態のように思われる



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こうした気分はさほど整理されたものではなくて、ある程度の不愉快、不決断、多少沈鬱した全体的な感情、何をしたらよいのかを正しく知らない状態、またある程度の不安静が存在している。一定の月日、毎日一定の時間、およそだいたい規則的に天候が不良となる地方においては、こうした影響はもっともよく観察される。連山地方においては夏の間の真昼頃は、天候が不良になる時期がある。この時期もちろん、かの気温の上昇は破壊的な要因として、すなわち最も重大な害を与える要因として作用する。また、上ライン地方の低い平地では、薄昏、ほとんど日ごとに西方の天空が薄灰色の幕に覆われ、圧迫するような風が起こり、たいてい落日の後になって止む。いまだ全くこの風土に馴れない人々は、ただちにこれを悟り知って言う。歓喜の情は薄昏時にわかに混乱すると。そのワケは、午後には、天の未だ明瞭に変化していないのにもかかわらず、こうした気分の変化が惹き起こされると。私は長いあいだ親しくこの事を観察したが、けれども私は決して天候感受性が特に強いという者ではない。しかしながら、これとよく似た事を私は、数多くの――その中には、他の場合にはほとんど天候を感受しない者もいた――北ドイツおよび東ドイツから移住した人々から聞いた。けれどもこの場合に、天候の不良となることが結局、



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単なる気温の作用がその主な原因なのかどうかを用意に判定することが出来ない。なぜなら、薄昏ごろしばらく持続した冷却も、これに馴れた人々よりもはなはだしく好ましくないものとして嫌われ勝ちだからである。
   不良な天候が晴朗となることは、上述した感覚的影響との間の矛盾を惹き起こすことがある。しかしこれは、あらゆる場合に好ましい感覚的影響と、これに相反する触動的な影響とが結合したところに原因がある。この場合は、心意的に見れば混乱とも言うべき心情状態に現れる。すなわち、晴朗な天候が少しも愉快な情を高めることがないだけでなく、かえってこの情を減退させるような混乱に陥れることがある。これはたとえば、久しい間に冷却された雷雨の後に、晴朗な天候が回復するも、その良好な天候が蒸暑の性質を帯びているといった場合に起こる。これに遭遇した人はおおむね次のように言う。天候は見えるほどには良好ではないと。春の天候はことさら、このような混乱を生じさせるのが常である。いかなる人もよく知っているように、初春日の夜明けのながめ、早朝の呼吸がそのキラキラした光と暖かい穏やかさで、人の心を恍惚とさせ、いまだ歩き始めたばかりなのに、



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早くも疲労の感じがしてきて、たるんで、くじけ、不安、興奮などの情が湧き出てきて、こうして感覚的に生じたあの愉快な気分が全然押しつぶされてしまうことがある。この際に作用するのは、もはや単なる天候ではなくて、むしろ気候の周期性を伴う状態と相関連している。これとよく似たことが南方、たとえばリヴィエラの天候の影響が北風が急激に入って来ることによって、おおよその予想にまったく反して、心意的に好ましくない結果を及ぼす場合である。不愉快な情緒、疲労の感じ、不安、気力がくじけて元気がなくなるなど漠然とした感情が、日光の暖かさからわきおこる強い喜びに伴い発生し、そしてはなはだ露わで著しい闘争を惹き起こす。こういうわけで人々は強いて自分から歓喜を求めようと欲するに至る。こうして彼らは、耳にするすべての事、希望するすべての事、及びまた、日常のすべての感覚的印象よって、こうするのが当然であって、いやむしろ、こうしなければならないという責任があると信じているけれども、それでもなお、天然の不快な天候の影響によって、そのように圧迫されている。我々はこうした場合、もちろん良好な乾燥した天候が、シロッコのときとは異なるというのを知っている。最近ある患者が――リヴィエラのあたりで神経の疾患を癒そうしたが果たせず、私に訴えて言うには、「ポーラ」すなわち寒冷な北東風が吹く時だけ多少堪えやすく感じると。しかしこの場合は、気候および風土馴化(気候に慣れて馴染むこと)の事実が関係しているので、これについては後に説明する。



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雷雨および「南風」のような単なる天候の変化に対してもまた、多くの動物は人類よりもはるかに卓越した予感と徴候を持っている。この場合は一部分「南風」の場合と同じで間接的な影響が作用している。例えば空気が次第に湿気を帯びてくるために、嗅覚または植物的な食べ物の味を変化させるといったことがそうである。もとより、世間の人がよく知っているように、その鼻孔を広げて空気を吸うことや、鼻をなめること、そのほかこれに似た鹿・豚・羊の牧場においてよく見られる、天候の変化に際して示す徴候の意味を動物心理学で明らかにするのは決して容易ではない。この種の動作のあらゆる形式、ならびに孔雀のわめき叫ぶ声、その他多数の家禽(鴨やアヒル)がわめき叫びながら迫ってくることや、しばしば水中に沈み潜ることなどは、すべて実際、観察される限り不安静や沈鬱、そのほかこれに似た出来事の徴候と考えらる。ツバメのよく習熟した様々な動作は、昆虫の天候感受性を指し示している。多くの昆虫は天候の激変が、たとえば雨が来る場合などは早く逃れて、自分を保護する物(土地・壁などの潜伏所)の陰に隠れる。これに反して蚊(カ)・ハエ・アブが飛び回るのは、天候が良いのを告げるものとして広く知らている。けれども恐らく、昆虫を食う魚やヒバリや、小鳥などの挙動の変化は必ずしも、昆虫などの挙動の変化が原因とは言い切れない。我々は、このような場合に次のような諸々の要素を区別しなければならない。



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――第一、魚は水の上を跳び上がり、鳥は著しく低く飛ぶ。この場合は昆虫をそこで捕えようとするからである。第二に、鳥が鳴くことがある。また、鳴かないこともある。この場合の鳥はもはや昆虫を取ろうとしない。第三に、鳥が鳴いたり、鳴かなんだりするのは、鳥もまた、天候の変化が近づいていることを感知して、自ら不愉快を覚えているところに原因がある。けれども、これらの様々な原因を一つ一つ別々に分けて考えるのは、今日の動物心理学の状況では不可能なことである。
  もとより我々は、粗野で雑多な信条を軽々しく盲信するのを避けると同時に、また、事に執着して混乱と曖昧に陥るのも避けられない。犬が草を食べるのは、天候がまさに不良になる前ぶれであると言うのは、古くから世間で信じられてきたことである。しかし今日の科学はこれを単に腸のウジによって、ほとんどどんな場合にも必ず起こる消化不良が原因であるとしている。けれども、こうした解釈がはたして正しいと言えるだろうか。こうした消化不良は、天候の変化が近よっているがゆえに、さらに一層強く作用し、そしてこのことが外に表出されたのであって、これを天候不良の予告として言えないだろうか。よく考えて見ると、有機体内に腸毒が存在すれば、天候感受性は結局、著しく高まって一般の神経質症ともなるという既に知られた経験が、私をして上述のことの正しさの可能性を信じさせた。そしてこうした推測は、人類もまた、しばしば腸虫を持つという結果として観察される、ということから大いにその真実をうかがわせる。



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    フランスの昆虫学者ファーブルは、天候の変化に先立つ昆虫の態度の変化について、数多くの詳しい観察をしている。例えば、松の木に行列する幼虫は、十日間の長きにわたっても晴雨計(気圧計)が最小を示す間は、たとえその間の数日が雨天でなくても、決してその巣を離れることがない。カブトムシの一種もまた、天候が険悪に向かう場合には、あえて外に現れず、しかも彼らは天候が不良に見えても、気象学上、良好に向かうことを知り得る場合は、反対に這い出してくる。ファーブルの詳しい観察による信頼すべき諸事項の報告は、これを論争の余地のない確かなものとして見ることが出来る。。

   おおむね、一般に天候に感じやすい性質の者の多くが、単に天候が不良となることによって、またまれには、天候が良好となることによって、たやすく沈鬱的に、あるいは興奮的になると意味において、精神が影響されるということが出来る。けれどもこの影響を特定するには、前に論じた天候の諸形態に対してよりも、さらに一層多くの困難が存在する。我々はこうした気候の影響が参与するという点において、また、感覚的作用が極めて密接に混じって入って来るという点において、こうした困難を見出す。しかしまた最後に、「不良な天候」、「良好な天候」という概念自体が定まることのない著しく俗っぽい概念だという点においてもまた、こうした困難に遭遇する。



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そうしてこの二つの概念に対して、現在の諸経験がほとんど関係しているにもかかわらず、しかもその概念の背後に様々な相異なる精神的影響を及ぼす、さまざまな気象学的諸現象が潜在している。言い換えると、こうした概念はきわめて表面的な、天候が及ぼす感覚的印象にのみ限られていて、したがって「触動的」作用の説明にはほとんど何ら資するところがないのである。「良好な天候」とは「朗(あきら)かな天候」である。すなわち空青く塵(ちり)が少ない天候である。けれども、十二月において雪は一種の「四月空」に比べて「良好な」天候である。なぜなら冬期を通して冬の塵埃たる雪は、一般に「不良な」天候とは見なされていない。安静な天候は風多き天候よりも比較的良好な天候という事ができる。けれどもその反対の場合もある。例えば「蒸し暑い」場合などがそうである。気圧が増すにつれて「不良な天候」となるのは一般に知られているところである。したがって、世の人が俗に「良好な」天候、または「不良な」天候と呼ぶのは、天候が我々に及ぼす感覚的影響に基づいて言っているのであって、これが触動的・統一的影響を及ぼしていて、従って同じような精神的影響を及ぼすことは、理論上まったく期待できないことである。なぜなら、ある天候形態の触動的影響は、その天候形態を構成するその要素が及ぼす個々の触動的影響から生じてきた結果だからである。



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我々が相等しい触動的影響を予期し得るのは、単に諸々の相等しい要素が、ほぼ等しい関係において連結している場合だけである。たとえば「南風」の場合、その空気の運動状態、乾燥状態、気温の度合い、電気性の多少などの諸関係においてそうである。けれども、同一の結果、すなわちこの「不良な」天候という全結果が、まったく異なる諸要素のまったく相異なる結合によって構成されている場合は、その予測は不可能である。――例えば、その不良な天候があるときは空気の運動、冷却、電気性の貧弱、および普通の湿度、雲の起こり具合によって構成され、またある時は、こうした天候が空気の静止、気温が非常に高いこと、強い湿気(雨)や強い電気性を帯びて構成されているような場合は、すなわち、その予測が困難な場合である。雷雨天候により、「南風」およびシロッコにより、蒸暑によって率(ひき)いられた雲模様によって生じた精神的(心意的)影響の諸経験は、実に粗雑で不正確である。けれどもそれはだいたいにおいて信頼することのできるものである。こうした、気象学的に確かな概念に基づいているということが、科学上の第一の材料として応用されるのである。これは、天候の変化が及ぼす精神的な影響に関する諸経験からして直にこうした関係が生じている。従って、これらの経験は十分慎重に、かつ、感覚的または単なる間接的な要因の可能性を絶えず考慮して評価しなければならないものである。



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     六  地震

地震のように著しく人類を恐れさせ、しかもきわめて短時間の間に継続する現象が、心情を動かすことに随伴して生じさせる影響に関しては、従来ほとんど観察されなかったのは、実に自然のなりゆきであった。けれどもあの雷雨の場合と同じく、この「大地の天候」の場合においても、それがついに起こる前に、その準備が神経および精神に触動的に現れる瞬間が存在するかのようである。少なくともあらゆる大地震においては、常に著しく露わな動物の動作によって予告されている。それは数多くの動物が雷雨に先立ってするところの動作と非常によく似ている。動物は不安そうに興奮し、恐れ憂い、いかにも彼らのいつもの状態とは著しく異なっている。世間一般の報告、特に地震のような人の心情を興奮させる自然の事変に関するものは当然あるけれども、しかしそれよりも、これに関する一層精密な観察を収集することの重大さをここに留めておく。
     地震をもって大地の天候形態であるとするのは正しい。なぜなら我々は今、数多くの惨憺たる大地震が、単に大地が不断に活動する運動の頂点に達するときであることを知るに至り、この大地の運動と大気の事象との関連性は、我々の現在の知識以上に密接であることを、なおさら正当なことと考えられるからである。



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           第二章 天候の要素




    我々の日常の経験の中では、ただ漠然とした複雑な天候の形式を見ているだけであって、これを要素に分解して考えるということは困難である。そこから、普通の方法でこの天候の各要素の、固有の作用を観察することは不可能であると言わざるを得ない。このような場合には、種々様々な天候の比較及び分類などを通して、その各要素を推論する方法をとる以外にないけれども、しかしこの方法もまた、正確とは言えない。なぜなら我々は、普通に我々の感覚を強く刺激する天候の要素が、ある天候の形式の中でもっとも重大な作用を、我々の精神と肉体に及ぼしていると考えるからである。このようにして、その天候の形式というのが、その中の特に著しく感ぜられる要素の、作用の影響であると推定することが多く、これが錯誤の原因となっている。例えば、気温、空気の動揺、および空気の明暗の度合いなどは直に認められるという理由から、我々の注意を惹きやすいのである。これに反して気圧、大気中の電気、空気の湿度、および大地界に関係する諸々の要素などは、われわれ人間にとって直接感知するということがほとんど不可能であるという事情から、非常に鋭敏な注意をしなければその変化を知ることが出来ない。




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こうして天候要素の作用に関する一般の報告は、十分に注意してこれを採用しなければならない。私たちが、一つの要素の作用であると考えることも、実際には二ないし三種の複合作用であることが多いからである。また近代の気象学が選定した天候の諸要素は、分類上便利であるけれども少し偏っていて、全体を反映していないところがある。そうして、このような天候の要素を利用しても、精神に対するその作用の反映から見ると、特に大なる便宜を与えるものにはなっていない。
    このような事情から天候の要素の観察は、われわれの日常の粗雑な経験を、比較的に確実なものにする基礎として特に必要なのである。最近の研究によれば、天候の形式の影響を認識するには、粗雑な自己観察による以外に方法がないかのようである。けれども、自己観察は適当な補助を加えて精密に行うことが出来る。これに反して天候の要素は、私たちが天候の内容から知り得る現象であって、また少なくともその一部分は人工的に作り出すことが出来るものである。こうして私たちの研究方法は、この二つ場合を取り得ることになる。実際、天候の要素といったものが、様々な複合と連携を為して出現するということ、およびその各要素を人工的に分離できることなどは、研究を容易にすると共に、天候の要素がそれ単独でいかなる影響を及ぼし得るかを直に決定し得るようになる。



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          第一節   大気界の要素


  <  熱振動:原子の振動のこと。
分子や固体中の原子は運動エネルギーを持っていて
、基準となる位置を中心に振動運動をしている。
温度が高くなるほど振動の振幅は大きくなる。>

  <  熱伝導は物体が移動せず直接触れ合うことにより、
移流は流体の流れを媒介させることにより間接的に熱を伝える。
どちらも熱は熱振動のまま伝わってゆく。それに対し熱放射では
、輸送元の物体が電磁波を出し、輸送先の物体が
それを吸収することによって熱が運ばれる。この過程だと、
二つの物体のあいだに媒介する物質がなく、
真空であったとしても熱が伝わる。>



      一  空気の温度

    私たちが日常の経験において直接感じる天候の要素は、その温度である。こうして温度の影響は他の混在する要素の作用に比較して過大に評価されることが多く、そして最も強く印象に残るものである。けれども透射光(輻射光?)および熱の伝導などがもたらす温度変化の物理的および生理的な様々な状態は、普通の人々には区別できないことが多く、そのために、こうした報告のどこまでを信用したらよいのか、というのを判断するのは大いに困難である。しかしこれら二通りの誤謬の原因も、近頃の機械的知識の発達に伴い、各種の実験を試みることが出来るようになったために、多少取り除くことが出来るようになった。例えば人工的に様々な温度を発生させて、それが人間に及ぼす影響を研究し、それと比較して自然界の出来事の観察を試みるといった方法がそうである。

  (イ) 熱輻射  「熱輻射」の物理学的意味は従来の物理学ではあまり多く述べられたことがない。私たちが普通に輻射熱というのは、(光または電波のような)放射エネルギーがある物体に当たった場合に、そこで変形して生ずる熱と、




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その物体から熱の伝導によって広がる近接の物体上の熱とを加えて言っているようである。また輻射エネルギーから変形して発生するその場所の熱だけを言う事もある。こうした現象は物理的に言えば、他のエネルギーが変形して熱になるのが普通であるけれども、生理的にはきわめて重要な違いが発生する。つまり、身体の表面及び内部において輻射が熱に変形するときは、その局部に新熱を発生させる。こうして輻射によって生ずる熱量の一部あるいは全部は、その周囲の部分に伝導される。けれども輻射が長時間継続する場合は多量の熱が新たに発生し、もしもその伝導を阻害するときは、輻射を受ける物体の温度の上昇は無限となる。これら三通りの特性を生理学的に表すと次のようになる。第一、熱量の増加は常に(寒覚ではない)温覚を伴うものであるが、従って身体に当たる輻射熱の心的作用は、感覚上単に、暑いか温かいかという温覚に過ぎない。第二、温覚の強度は熱量の増加の大きさに関係するために、きわめて狭い範囲に強い輻射熱が生ずるとき、温覚は非常に強くなる。第三、輻射の程度は弱くても、長く継続して一定の場所に輻射線を当てるときは、ついに大きな熱量を発生するに至る。第四として上げられるのは、輻射線は実際、< p63 > 常に周囲にあるエネルギーの源からくるものであるために、ただその線を受ける物体の相対する側にのみ輻射を受ける。第五に、輻射線は身体の表面だけでなく、深部においてもなお熱に変化し得る。ここにおいて輻射線の作用の範囲は大いに増大し、感覚作用の第四の特性は、輻射を受ける局部によって著しい差異が生ずる。また、適当な輻射を受ける場所を選べば、きわめて強い輻射の影響を受けさせることが出来る、という事を知る。
    以上の推論は経験によって十分に説明できる。我々の身体に当たる輻射は常に熱を発生させる。また適当な伝導の機会がある場合には、強い輻射もかなりしのぎやすい。しかし適当な伝導の条件がないときは、弱い輻射もしのぎ難く、かつ著しく危険となる。特にこうした現象は生理的基礎と心理的生活との関係が密接な局所に最も著しく現れる。熱輻射を最も効果的に受ける場所は高山上の冬季保養所である。ここでは常に、新たに発生する熱は愉快な温覚を生じ、また、寒冷な空気によってその熱を急激に奪い去るために、温覚は常に快感を保持している。また頭部の輻射を防ぐためには帽子をかぶればよい。これに反して、熱帯における日光の直射、< p64 > 汽船機関室、冶金工場などにおいて、頭部の輻射を十分に防ぐことをせず、また、周囲の熱せられた空気が輻射熱の伝導をほとんどできずにいるときは、きわめて不幸な影響を受ける。そのもっとも重大な結果が日射病である。
    私たちは熱輻射の心理的影響の尺度を以下のように定めることが出来る。先にも温和な影響の際には鎮静的な快楽の形式で、健康は著しく増進し、同時に我々の奮闘的努力を停止させるような軽い倦怠の感じを伴う。強い影響の際には、その愉快は積極的となり、一種の快美感を生ずる。これは日光浴者がたびたび記述した実際の絶頂感である。けれどもこうした場合の著しい興奮は、さらに愉快な色彩が混じることが多い。また、興奮が進むときは不快に変わり、不安、憤慨、憂悶、恐怖などの情緒を生ずる。輻射を頭上、すなわち脳部に及ぼすときは激しい興奮を起こし、明らかに病的となる。無感覚で口数が多く、歌謡、幻覚、狂暴などを含める精神錯乱状態を現出する。そして最後に来るのは死である。それは精神錯乱状態の中途に起こり、またはその状態より無感覚の状態に変化した後に起こる。これらの現象の身体的原因は、大脳及び脳膜の炎症である。それには頭痛、失神、痙攣などの生理的徴候を表出するに至ることが多い。
 < p65 >
    このような過ぎた結果の大部分は、日中に何もかぶらない頭を露出することによって生ずる普通の日射病にこれを見ることが出来る。地上の熱源、すなわち汽缶、溶鉱炉、鍛治炉、ガス灯、囲炉裏火、燈火などの輻射エネルギーは、一般に日射病の徴候を生ずるほど強力ではない。けれども、これらの熱によってもしばしば熱輻射作用の軽い徴候を観察することが出来る。その作用は時として(汽缶室の中のように)空気の伝導熱の作用と混じり合って起こることが多い。このような軽い徴候の中心になるものは、定まることのない興奮の不安の感じとして始まるのを常としていて、明瞭な知覚の範囲で激しい苦悩に襲われるに至る。またこうして人々の個性に従い、その心理が受ける影響はもちろん著しい違いがある。
    頭部を保護して他の全身に強いまたは継続的な輻射を注ぐときは、日射病の状態は軽い徴候のみに限られることが多い。神経衰弱にかかった人は日光浴でたまにこれを経験し、強壮者は数時間こうした状態に耐えることが出来る。電気の烈光に俗する場合にも同じような状態を観察できる。
    また、日射病にかかって精神錯乱の状態に陥った患者も、時には幸いに良好な経過を辿ることがある。 < p66 > けれども回復の後、多くの人は長期間または永続して神経系統の衰弱が残留し、そのために精神の興奮性を増加し、そして各種の神経衰弱徴候を現す。
    熱輻射線に対して多少順応するというのが可能であることは、このような線に絶えずさらされる職業の場合に例証を見ることが出来る。こうした順応性は人の体質(人種、気候的境遇、年齢など)によってかなり相異する。こうして一般に規則的で永続的な心理上および神経上の変化を起こす。たとえば軽い興奮性向、記憶減退、原因なき不機嫌、気分の変化、不安な睡眠、心配性などにおちいる。


 < 動悸とは、心臓の拍動が自覚される症状です。
心臓が強く脈打ったり、ふるえたり、激しく鼓動したり、
脈が飛んだりするように感じられることがあります。
動悸の原因によっては、胸の不快感や息切れなど、
ほかの症状が生じることもある。 >

      < 脳震盪(のうしんとう)は、
最も頻発する外傷性脳損傷のタイプであり、
頭部に衝撃を受けた直後に発症する一過性および可逆性の
意識や記憶の喪失を伴う症状で、一時的な機能停止あるいは
一部が損傷や微少出血を受ける病態 >


    わずかな熱線に対する強い感受性は、これを特に精神的な影響から見ると、特殊な神経病的素質、または後天的神経衰弱の徴候であることが多い。特に従来このような輻射線に対して無感覚であった者が、脳震盪を起こした後、はなはだ敏感になることが多い。その時は本来弱くて何らの影響もない輻射線が、そののち激しい不快、不安及び興奮を呼び起こし、頭痛、めまい、及び激しい動悸を伴うことが多い。従って、このような人は(石油灯及びガス灯のような)熱から生ずる光線の下で仕事をすることはほとんど不可能である。 < p67 >
    熱線の精神的及び生理的影響が、熱源の性質によって注意すべき差異を生ずるかどうかの問題は、従来いまだ確定されていない。太陽、炭火、ガス炎、石油炎、電灯などの熱の影響は、何ら種類の差があるものでなくて、ただその輻射エネルギーの強度の差があるだけである。 

―――――――――――――――――――――
< これは間違いで、同じ強度であっても質の違いがある。つまり、物理的な波長の違いである。強さとは、量×質であって、同じ温度でも熱を媒介する例えば水蒸気の量、あるいは直射光であれば照射角度が違えば、熱の強さは違ってくる。そういう意味では「強度の差だけ」というのは正しい。しかし同一の強さであっても温度が違うと、その物理的な波長も異なってきて、それに従い人間の目で見える範囲も、またその見え方も異なってくる。これが量では表現できない「質」の違いなのである。その見え方も、感覚の感じ方も、また肉体の感じる部分も微妙に違ってくるのである。
「赤外線」は波長が長く、それだけ回り込んだり迂回したりして遠くまで届く。またそれだけ穏やかであり暖かくも感じられる。反対に波長の短い青色の熱は肉体の表面を焼くだけである。赤色になるほど暖かく肉体の中からジワリとぬくもってくる。これは枯れ枝の焚火とガスバーナーの暖かさの違いでも実感できる。また夕焼けが赤く、長い波長だけが届くのと同じである。
あるいは黄色のたいまつの灯はどうだ。最も明るく遠くまで見える。黄色が最も明るく、遠くまで見える。同じ強度であれば黄色がもっとも明るい。
(すべての色の平均化したのが白色であって、その中で黄色がもっとも明るい。青色がもっとも暗い。そして中間の緑と赤とを含めて総合した色、またはすべての色を削除したのが「白色または黒色」である。白または黒色はすべての色を含むので色彩ではなくて明るさ、明度である。つまり同じ明度であれば黄色がもっとも明るい色だということである)
またこうした見た感じといったもの、その見える、または見ている、あるいは記憶の中で残っている、見てきた風景の印象といったものも、やはりカタチと共に色でもって印象付けられ、記憶され、そして符号化されている。これが無意識の観念の世界である。だとすれば、熱の影響は同一の強度とは無関係なところで、それとは別の色相や彩度などと共に、種々様々に人間の心理の世界で影響していると言わざるを得ない >
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我々の今日の知識からすると、これ以上は明言することができない。けれども輻射線の精神的影響を一部は神経中枢の近傍および内部において、また一般には肉体の外部および内部において変化する熱だけに帰すことが出来るという結論を出すには、なお早いかのようである。熱に変換されずして肉体内部に透入してきた輻射線も、熱との共同作用を営なむことが出来ないという理由はないのである。いま人工的な熱輻射源の精神的影響と、天候の要素として唯一の太陽輻射線の精神的影響とを比較して、互いに相類似しているという事実から、私は以下のように言う事が出来る。すなわち、だいたいにおいて観察された影響は、輻射線がもたらした熱に帰すことが出来ると。けれども、これらの影響を純粋に熱作用として解釈するのは、今日の比較分析の立脚点からすると、いまだ認めることのできないものである。 < p68 >

   ( ロ ) 温暖な空気
太陽の輻射線によって暖められた空気は、伝導熱の重要な要因となる。われわれ固有の体温と空気の温度との関係からして、それらが接触するときは、あるいは温暖、あるいは寒冷の感じを起こし、それが適度な時は全く知覚されることがない。寒いというのは体温を失いつつある際に
生ずる感覚であって、暑いというのは体温の保持または上昇を示す感覚である。そうだとすると、温覚及び寒覚は、肉体とその境界との間で行われる熱量交換の心理的表現である(輻射によって新たに発生する熱を除外すれば)。実際、空気はある一定の温度以上に熱せられるものではない。直射光線を除いて観測された最高温度は摂氏六十度以下である。しかも、輻射によっては決して熱せられることのない身体の部分の温度を限りなく上昇させることがある。輻射線によって表皮を火傷することがたびたびある。けれども、同じ温度に熱せられた自由な空気によっては決して火傷することがない。また空気は、たいてい全身体の周囲を流れるために、それによって与えられる熱は輻射線によるものとは異なり、すみやかに外部へ伝導してゆくことがない。特に空気が非常に暖かい時には、身体から外部への伝導は著しく減少し、あるいはまったく止まる。 < p69 > その結果、体温は上昇しはなはだ危険な状態となる。すなわち発熱の現象において示されるように、普通の体温よりも摂氏六度以上の上昇は、我々の生命の調和を破るに至る。このように我々の身体に対する空気の伝導熱の作用は、輻射熱に比べて、強度は小で、温度は低く、かつ表面的である。けれども伝導熱は輻射熱のように局部的ではなくて、一般的であるために、はるかに低い温度においても生命に危険を及ぼすことがある。輻射熱によって生ずることない「寒冷」については、後に改めて述べる。
    気温が著しく上がって、その為に人の体温が上昇し、かつ、風、入浴および飲料などによる体温の外部伝導を遮断するときは、体温は身体の運動のためにますます上昇し、ついに日射病にかかるに至る。
    このように危険な熱作用の出現の形式はすこぶる多様である。しばしば生理的破壊がはなはだ急激に起こるために、後で述べるような一般の高気温の作用が前兆として来るのみであって、別に特殊な心的予兆といったものを起こすことがない。けれども、はなはだ徐々に起こる場合には、数時間ないし一日に渡って固有の心的影響を観察することが出来る。その際に起こる複雑な徴候のうち、主なものは疲労である。疲労と結合して不安および易感性の存することが多い。 < p70 >
 <「易感染性」の意味は、多感で感じやすい。
又は免疫機能の低下などによって抵抗力が弱まり、
細菌やウイルスなどによる感染症に罹りやすくなっている状態。>
けれども、こうした場合にも無感覚状態は、全部の現象の中で重要な位置を占める。このような麻痺作用はしだいに<「暫時」しばらくの間「漸次」しだいに、だんだん。>意識を混濁させ、ついにはまったく人事不省< 昏睡(こんすい)状態に陥り、意識を失う>におちいる。感覚刺激は次第に不明瞭になって、ついには知覚なしにいたり、眼球は凝固して光なく、痛苦および危険に対して全く無気力となる。もしも歩行しつつあるとすると、ついには半ば無意識の夢の中で歩き続けるに至る。これは、軍隊の進軍中における日射病の前兆として我々のよく知るところである。この無感覚状態はわずかに不安の感じが混じっているが、それが全体の調子を根本的に変化させるといったことがなく、むしろその状態は、患者に対して二重の苦悩を与えるようになる。なぜなら、不安と衰弱とは、常にはなはだしい結合情緒を作り出すからである。
    以上の日射病の心理的(心意的)前兆は、我々が高温度の空気の心理的作用として一般に知るところの、情緒の著しい徴候に他ならない。こうした状態は常に不安に苦しめられるものであって、その際に、倦怠、疲労、無感覚などは少しもその不安を和らげることがないかのようである。時には身体の運動によってこの不安を逃れようとする者もいるけれども、かえって体温を上昇させて、不愉快な加熱状態を高めるだけである。この病でもっとも苦しいのは、  < p71>  夜間ほとんど眠ることが出来ないということである。こうして、そのために疲労は少しも回復されず、このような状態では情緒は絶望的な興奮をしつつ、しかもなお外部の動作はにぶくてのろい無感覚状態を現す。そしてこれが伝導熱の作用の共通の特徴なのである。これに反して、輻射熱の影響の特徴は終始興奮状態を現すのである。
    温度が低い場合における、輻射によって生じる熱の心理的効果は適度であって、頭脳に影響するといったことがない。この場合、明らかに熱の生成とその放散との間に、一種の平衡が成立している。このような場合、我々は軽い倦怠の調子を持つ非常に愉快な生理的・心理的状態になるけれども、精神的・意志的努力においては直接の関係を感じることがない。個性および習慣を全く無視して考えると、以上の状態は周囲の気温の度数に規定されているものである。しかもこの場合は、輻射熱と空気の動揺からくる影響を絶対に防ぎ、かつ、身体の十分な安静と裸体であることが想定されている。しかし、このような安静な裸体の人が、風のない日陰の温気中に軽い倦怠を覚えるという、愉快な感じをするかどうかは疑問であるという人もいる。実際、そうしたことの規則的な証明は従来試みられたことがない。けれどもこのような「温度」は、普通もっとも愉快と感じられる通常の体温とだいたい等しい、  <p72>  約三十六度の温湯浴に類似しているために、私は同様に愉快なのだと想像するのである。
    伝導熱の場合においても、頭部と他の身体部分との間で区別があるのは、普通の経験から見ても明らかである。すなわち、他の身体部分よりも、頭部における熱の放散が強いほど、さらに愉快の度をます。しかし我々はこの場合、衣服の状態を考えなければならないので、全体の問題はさらにもっと複雑になる。特に衣服の材料、組成、距離などは、ことのほか複雑で様々な温度調整の関係を発生させる。我々はひどく寒い場合でも、全く動きにくいくらいに多くの衣服を重ねても愉快に感じることが出来る。だからまた、我々の精神的健康に関する「標準温度」の決定は、まったく絶望のように思えてくる。なぜなら、前に述べたように、裸体の場合の絶好域の温度以下に、任意の衣服の選択、または各個人の必要に応じた個別の絶好域の温度があるはずだからである。

        けれども、全く標準となるべきものがない、というものでもないということは、レーマンとペダーゼンの研究から見ても明らかである。彼らは精神作業と筋肉作業の場合における温度の絶好域を研究して、精神作業が筋肉作業に比べて低音域であること示した。  <p73>  この実験における精神作業は、加え算にして、その速度を比較して絶好域を定めている。その数例を上げれば、二人の被験者においてその筋肉作業の絶好域は、摂氏十五および十七度であって、加算(精神作用?)においては七度及び十度であった。したがって、身体作業の絶好域は精神作業に比べて、七度半ないし八度の高さを示している

    このような作業に関しては、天候よりも気候の影響がかなり大きく作用してるようである。こうして馴れた多くの経験によって絶好域の結果を研究すると、一般に精神作業に関しては、高温度よりも比較的低温度が適していると感じられる。しかしまた、我々の衣服とその間に介在する空気とは、我々の身体の周囲に別の状態をつくり出して、外部の温度の上げ下げを調整するために、この点を考えることが必要である。ある季節には、その季節に知られている平均温度に対応する衣服がもっとも適当であって、もしもその温度が上下するときは、その間の一致が破られる。すなわち、あまりに暖かいか、あまりに冷たいかのどちらかである。この暖かい場合を考えると、我々の衣服の下の熱は体温を超えるに至る。こうして高温度の空気の生理的・心理的影響が生じ、睡眠を催すにいたる。こうした影響は全身、特に頭部に高温を受けるときにかなり著しく現れる。  <p74>  しかし、頭部を冷やかに保つときは三十五度の「衣服空気」がもっとも愉快なようである。身体の温度をこの程度に保ち得るときは、我々は頭部の温度を非常に下げることも可能である。その下げ温度は人によって差がある。けれども局部的凍傷を起こすほど低い場合はない(?)。衣服に包まれた我々の身体表面の温度と、冷却した頭部表面の温度のとの差において、常に精神作業に対する「絶好差異」が存在するのが見られる。すなわち、ある一定の差があるときに、精神作業は最も敏活に行われる。しかしまた、精神運動的作業または生理的および精神的安静の際の、健康に対する絶好差異は多少異なる。頭部の温度というのは、要するに室内の温度である。こうしてもっとも愉快な室内温度は、普通、十八度前後である。こうして衣服の下の空気を三十五度とすると、その絶好差異は十七度となる。そしてこの値は、作業の種類および人によって異なるのが普通である。
    経験上の事実として特に注意すべきは、無為の愉快のときの絶好温度および精神的な努力のときの絶好温度と比較して、睡眠のときの絶好温度が存在することである。  <p75>  これは愉快の絶好温度の近くにあると思われるけれども、実際には、前の二者よりもなお低い温度である。この場合にも、身体空気と頭部空気との絶好差異は当然観察される。多くの人々は、深い眠りを求めて、躯幹<体幹のことで、胸部・腹部・背部・臀部(お尻)・会陰部(腹部下方の恥骨から尾骨先端までの股部分)>に愉快な温熱を要求するが、頭部はなるだけ冷やそうとする。こうして寝室は他の居室よりも冷やかでも構わないとしている。実際、我々は暑い天候の際には寝苦しいことが多い。さらにまた、就眠と継続的睡眠の性質との間には、条件の違いがあるというのも明らかである。愉快の絶好温度近くでの就眠は我々を容易に就眠させる。けれども継続的就眠のためにはなお、冷却した頭部温度のほうが良い。またこの場合にも習慣によって様々な差があるというのも確かである。

      人工的に二十度に暖めた室内の空気と、夏季の自然における二十度の室内の空気を比較すると、人工の方は著しく不快であって、長く耐えられないのを感じる。これは温度以外の他の気候要素の違いに原因がある。しかし、これについては後に詳しく述べる。

    (ハ)  寒冷な空気。
空気の温度が氷点下に下がるとき、物理的にその空気を「寒冷である」という。また単に、我々の感覚から言えば、  <p76>  我々の体温よりも低い温度はみな寒冷であるという事が出来る。実際、我々が寒冷だと感じる空気の温度の差は、常に動揺するものである。その原因は主に、我々の身体の体温放散の割合が変化する急激な度合いによるものである。我々はきわめて少しづつ冷却されるときは、寒さというのを感じないことがある。けれども冷却の速度を急激にするときは、わずかな温度の差でも、とても寒く感じる。
    我々は衣服を着ることによって、暑熱よりも寒冷の方がしのぎやすいというのを知る。寒い時には運動の不自由さを忍べば、衣服を重ねて体温の低下を防ぐことが出来る。けれども暑い時には、裸体以上に衣服を減らすことは出来ない。けれども厳寒の際には動作の必要上、所要の衣服を着れない場合が多い。例えば、我々は顔面をまったく覆うことはできない。ならば、このような寒気に永く曝すことは実際出来ないことであり、住居内の人工的に暖めた空気中で主に生活するようになったのである。
    寒冷の寒いという感覚は愉快なことがある。ことに「爽快な涼味」は非常に愉快である。けれども寒いという感覚は局部的であるか、または全身にきわめて短時間働く場合でなければ、不快となる。  <p77>  すなわち、暑熱がとっても不快に感じられるときに、寒冷は最も愉快となる。この作用はきわめて効果があって、著しい疲労、倦怠、不機嫌の際にも、しばらくの間清新爽快な感情をもたらす。こうした目的のために我々は、人工的に水を使って涼をとることがある。
    われわれは局部的冷却、ことに温度の非常な変化にさらされる、裸の身体部分、すなわち顔面、手、足などにおいては、ある程度の寒冷中でもかなり長く愉快に感じることが出来るけれども、身体全部の冷却に関しては、ただしばらくの間を耐えられるだけである。長く継続して全身に寒冷の感覚を受けるときには、その情調はたちまち不快に変わり、戦慄する。この際の心理状態もまた不愉快であるとともに、不安、不愉快の情が生じ、明らかに自然な心理的圧迫が起こり、運動によって体温を高めて寒さから逃れようと力むに至る。
    ある程度の悪寒は局部的な戦慄となって不快な感じをもよおす。こうしてその感覚が身体全部にわたるときは凍死の前兆として、よく知られた心理作用を起こす。
    <p78>  凍死の危険を惹起するために、約一時間にわたって体温の低下が著しく進行する。生物はどのように運動しても、その体温を平均の高さに保ち得ないほど、著しく熱を失うに至る。凍死は必ずしも体温が零度以下になることを必要としない。なぜなら、凍死の過程は身体を構成する液体成分の凍結によるものではないからである。身体の凍結は、体温が全部消失した最後に最後の時期に起こることである。こうして凍死は、体内の体温発生能力のある程度の減退と、これに関連したすべての生理作用の減退した一定の時期に起こるものであるがゆえに、身体の凍結よりも多少早いのを常としている。こうして凍死は物理的過程ではなくて、生理的過程なのである。そしてこれは、体温の収支に関係するのみならず、また身体全部の健康状態、疲労の過程、血液の成分、神経の特質および精神状態などにも関係している。また、観察された限りにおいて、凍死の心理的前兆の中には、身体の凍結に関する徴候はいまだ知られていない。
    こうした「前兆」は、心理的、ことに精神運動の麻痺の模範的光景を表している。凍者は始め軽度の睡気を感じ、次第に脅迫的な睡眠状態に陥る。  <p79>  特に恐るべきは、運動しようとする衝動が消えてなくなることである。現在の状態が危険であるとの自覚は確かにあるけれども、意志というのがまったく無力となるために、どうすることもできず、哀れな犠牲はついに地上に座し、あるいは倒れるに至り、こうしてすべての精神的努力は無効に帰して睡眠に陥る。そしてこの睡眠は死ぬまで続き、決して破られることがない。
    時には、初めに疲労と一種の心配に満ちた興奮とが混在するようなことがある。けれども我々はこの現象を寒気の作用として考えることは出来ない。むしろその原因は、その時に迫りつつある危険に対する、なお明瞭な認識、及び局部的な凍結にある。この局部的凍結およびこれに伴う非常な苦痛などによって、私たち、特に小児はほとんどみな、絶望的な騒動をなし得ることを知る(??)。触覚と運動神経に関する寒冷の作用については、ただ精神運動的麻痺を挙げて足りるとする(??)。 
    凍死の危険の範囲外においては、我々は寒冷に対してよく防御し得る限り、おおむね容易にこれに耐えられる。一般に、寒い気候になれることは大きな困難なく遂げられるだけでなく、  <p80>  多くの神経の症の人々には、寒い気候がはなはだ有効な作用をなすことも明らかになっている。彼らは寒い気候において精神的に自由を感じ、行動を容易にし、気分を快活に保ち得る。人は衣服を着ているために、身体は概して寒気に直接さらされることがない。しかしこの反対論は間違っている。われわれは衣服によって肉体表面にそれに合わせた適当な温度を作るけれども、これに覆われない肉体表面の存在と、特に呼吸とによって、肉体を寒気の作用にさらし、かつその作用によって、触動的にそれに合った身体作用を反応させる。寒い時に暖かい空気を呼吸するときのように、吸気を十分に温めるためには、体内の物質変化がかなり活発に行わなければならない。このように高ぶる物質変化、および前に述べた頭と身体との間の絶好温度もまた、神経過敏な多くの人々をして暖かい気候よりも寒い気候をより愉快と感じさせるのである。多様な温度の状態に加えるに湿度および太陽の昭光の諸要素などが、彼らの健康状態に有効に働くのである。寒い季節に神経病者の一群、および貧血症の人々に起こるような物質変化の高進は、精神的に過度の興奮としてはなはだ不愉快に感じられるのは、すでに述べた通りである。  <p81>  健康な者と言っても、寒い空気中に馴れない長い滞在をするとき(冬の遊び事のような)、または馴れない涼しい気候に移転するときには、愉快と不快の間を動揺する興奮状態を経験することになる。

    二  空気の運動
俗人の経験によっても、大気の現象が天候の状態と密接な関係を持つということがわかる。風と天候との関係は、実に一つの確固とした結合を示している。こうした仮定が実際の関係をどこまで現しているかは、ここでは研究しない。しかし風がすべての天候の要素中、温度に次いでもっとも脅迫的なもの、もっとも直接に感じられるものであることは確かである。空気が動くこと、そしてその運動の程度を知るには特に何らかの装置を必要としない。われわれはみな、生まれながらにして専門の気象学者と同じく風を感じる。
    風の我々の心理状態に及ぼす影響はとても重要である。空気の運動は、肉体の体温の放散を容易にし、そして冷却を呼び起こし気分を爽快にする。この場合、風によってのみ起こすことのできる固有の、温度の影響を見ることが出来る。けれどもなお記憶すべきは、他の要素の反対の作用によって、風の清涼作用が妨げられることがある。 <p82> たとえば、強い湿気の緩和作用がそうである。実に、蒸し暑い風は特に高い温度を持たなくても、著しく弛緩的で不快な興奮を起こし、常に清涼なまたは愉快な興奮を起こすことがない。また気温が比較的に上昇するときは、冷ややかな温度の時に反して、空気の運動は涼味を感じさせないことが多い。こうした場合、体温の放散は前よりも減少するために、そうした風を「生ぬるい」と感じる。しかしこうした風は、常に不快の感じを起こすとは限らない。実際、われわれは「生ぬるい空気」を愛している。たとえば、冬が過ぎて春がまさに来ようとする季節に、われわれの袂をはらう暖かい風は、多くの詩歌となって歌われている。こうした風がとても愉快なのは、「温和」な直接の心理的印象である。こうしてしばらくの後、このようなことに感じいやすい人々に対して、体温放散の「減少」に伴う触動的作用を常に呼び起こし、不快な興奮または弛緩を生み出す。
    空気運動の直接の作用はその際、明らかに現れる。われわれの皮膚に対する空気の運動は、体温放散の変化を無視しても、それ自身において興奮的なものである。しかしこうした興奮は、内面的にはかなり狭い範囲においてのみ愉快なものである。非常に神経質な人は一般的には多く場合、風に耐えられない。  <p83>  彼らは微風によってもなお、著しく不快な興奮を起こす。健康者にとってこうした場合の興奮が愉快であるか、それとも不快なのかは、風の継続の時間と強度に関係する。非常に長く継続する相応の風は、初めは非常に「爽快」で愉快な興奮作用を起こすけれども、最後にはまったく耐え難いものとなる。疲労、弛緩および不安、頭痛、めまい等を起こし、気分は不快になって怒りやすくなる。人々が山または海において、または人工的に――センスによって、また一定の空間に気流を発生させることによって、――風を刺激材料として求める傾向があるのは著しい事実である。しかし、風の愉快な作用も、その一定の強度と期間によって、非常に速やかに反対の結果に転ずる。そしてこの場合、湿気および高温度などの不快を生む天候要素の存在する場合には、風の不快の効果は非常に強大となるのは疑いを入れない。
    多数の人々に対して特に不快な種類の空気の動揺は、隙風(隙間からくる風)の現象である。隙風の概念については正確に記述されたのが多い。その固有の意味は、一つの局部的な気流の作用を現わすのであるが、ことにわれわれの身体の方へ吹くのをそう言っている。そしてこれによって皮膚は冷却し、  <p84>  神経質の人にとっては直にリューマチ神経痛およびその他の同様な病症を発生させる。そうしてこのような人々は、こうした冷却を恐れてすべての風を隙風として忌避するようになる。こうした広義に解するも、また狭義に解するも、隙風の作用は温度の作用であって、決して直接の空気運動の作用ではない。
    著しい低温度の場合には、わずかな空気の動きでも、すこぶる耐え難いようになる。私たちは、このような運動する空気の寒気が、凍死の危険に対して最も重要なものであって、その作用は温度の作用によるものであることを知る
これに反して、このような危険を問題にしない場合は、寒風は一種特別のものである。例えば、我々は氷点下15度の寒風には瞬時も耐えられないが、氷点下25度の静止した空気中では、比較的よく耐えることが出来る。すなわち純粋の体温奪去作用に対して空気はあまり効果がない。けれども低温度の寒風が惹き起こすものは、寒風の際の特に不愉快な皮膚の強い乾燥である。そのために寒風が直接肌に触れるときは、ただちに切られるような痛みを感じる。
    温度と全く関係なく考えても、非常に強いか、または非常に長く続く空気の運動の、  <p85>  不快の興奮を起こす作用は、疲労によってさらに強められるのは当然である。疲労は風に対してまともに対峙するために、その必要な筋力が大きく消耗される。
    結局、空気の運動は、その強度と持続の長さとのある一定の範囲においてのみ、われわれの心理に愉快の感じを与えている。その範囲外では不愉快である。そして、一部分は興奮的、また一部分では弛緩的要素として現れている。けれどもその純粋な効果は、間接な作用、すなわち冷却、筋肉の疲労などによってすこぶる妨げられやすい。

      三  空気の組成
俗人の間では、空気の組成が心理的健康にかかわる「気候要素」として、一つの重要な位置を占めるということがよく知られている。すなわち「純粋な」、「塵埃なき」、「オゾン豊かな」空気は人をして蘇生の思いを新たに抱かせ、また健康に良しと感じさせる「場所」の特別の推挙条件となっている。実際、空気の組成がいかなる程度まで天候の要素となるか、またそれは、複雑な天候の形式中の不可欠の成分として、どの程度まで入って来て天候の状態に影響するかは、いまだなお不明である。けれども新しい天候研究において、この要素に著しい価値を見るに至ったのは明らかである。  <p86、以下PDF2>  しかし主観と客観とを混同してはならない。空気の組成の天候に対する影響はきわめて少ない。例えば、一つの大都市において空気が炭酸ガスで充満したとしても、この大市街の中の天候状態にはほとんど影響を与えることがない。しかし、炭酸ガスが飽和したときと同じような天候で、他の愉快な性質を持つ空気がある時とでは、精神的にはまったく別の地方にいるような異なる感じを受ける。
    空気の通常の主成分は、窒素、酸素、炭酸ガスおよび水蒸気であるが、その内の水蒸気は独立の天候要素として、一つの重大な役目を担っているので、「空気の湿度」という名のもとに、空気の組成以外の天候の一要素として述べなければならない。組成中のガスは、前述の三種および数種の常住の成分としてのガス以外にも、いかなるガスも機会があれば空気中に混在し得る。液体の組成分で問題になるのは前記の水である。また、固体の夾雑物は塵埃の他に煤煙を数えなければならない。細菌も固形の成分として数えなければならないが、これは客観的健康に対して意味を持つだけであって、  <p87>  その形状があまりに小さいために、空気呼吸の主観的健康上、直接の影響を与えないので見過ごすこともできる。細菌は空気を危険なものにするが、呼吸の目的に対しては空気を全く腐敗させることがない。(?)
    「明らかに分かつ」という点で空気の組成は、前述の二種の天候要素(?)と後で述べる諸要素との中間に位置する。空気の組成は空気の温度および運動のように、一般に知覚し得るものではない。人に空気の組成を知覚させる唯一の嗅覚は、あまりに個性的・主観的で信用できず、その要素の変化を漠然とわれわれに知らせるだけである。はなはだ微細にして無害な空気の夾雑物も、「嗅ぐことが出来る」特性を有するときは、その点で人々の注意を惹く。こうしてかなり重大なものも、ニオイがないためにわれわれの知覚から逃れるものが多い。こうして見てもわれわれは感覚的作用と触動的作用とを密接に関連せざるを得ない。わずかに不快なニオイも、著しく人間の神経を刺激することがあって、その感覚や知覚と心理的に結合した、強くて不快な情調を伴ってきわめて不機嫌となり、その場所に一刻も止まることが耐えられないようになる。けれども神経系統およびそれに伴う心に対する触動的作用、  <p88>  すなわち不純な吸気の科学的性質によって発生する神経状態の変化については、ほとんどいう事がない。なぜなら空気中の夾雑物はおおむね非常に微小であって、一般に嗅覚にのみ現れ、科学的に分析し得る程度にまで達することがないからである。これに反して嗅ぐことのできない夾雑物がもっとも強い触動的作用および心的作用、疲労および弛緩を生じさせる。人間は多数の人々が集合する一室中に入るとき、そのニオイによって「腐敗した空気である」ことを知る。そのニオイは強く不快でほとんど耐えられない。けれども我々が最初からその部屋にいて、頭痛、めまい等の空気の悪影響を受けるときに、その原因になっているのは、前述のニオイある夾雑物だけでなくして、その大部分は無臭の気体によるものである。この場合、われわれは単なる不快のニオイにはおおむね馴れるに至る。そしてその中に長く留まるほどますますそのニオイの知覚は消滅し、従ってその知覚に伴う嫌悪の感情も減ってゆく。これに反して、無臭であるけれども、物質代謝の上で効果を及ぼす空気中の夾雑物は、我々の滞在の期間に関係なくその働きを増してゆく。
    こうした区別を眼中に置いて、空気の組成の変化に対する感受性について、  <p89>  多数の、ことに神経質の人々が説明した所を考えなければならない。異常なほどの神経過敏な人々は、わずらわしい感覚刺激、特に軽い嫌悪の感じの生起に関しては、非常な鋭い知覚を持っている。また「この空気は腐っている」とか「あそこの空気はとても清潔」といった判断には、空気の組成とはまったく関係のない、数多くの感覚的要素が前提になっていることを忘れてはならない。「清涼な」、つまり冷却して軽く動く空気は、温暖で静かな空気と同じであるか、あるいはそれよりも不純で不健康な組成であることがある。様々に重複し錯綜し、そして直接間接に連携し連続した要素もまた、印象を怠らせる。非常に清浄な空気も、わずかな不快なニオイのために不純に思えることがある。花や枯草などによって香を付けられた著しく不適当な組成の空気も、我々には清純に思われる場合がある。それは通常、われわれが田舎よりも市街、家屋、室内などの不潔な空気中に、不快なニオイに遭遇する理由である。こうして実際、もっとも重要な作用をするのは、これとは別の他の無臭の夾雑物である。また、われわれの感覚的印象によって構成された判断も、同じく連合作用の影響を受ける。われわれは概して、わずかでも便所のニオイある空気を特に悪しと判断するにもかかわらず、多くの人は牛または馬小屋の、なお強いニオイを不快に感じないのである
      <p90>  われわれは、感覚器官とその知覚に基づいて空気の組成を判断しているのであるが、しかし、これ以外の自由な空気の組成の変化というのが、比較的わずかであるということである。これに従い、人間の心理状態に対して自由な空気が作用していても、実際、その影響があるとの確実な結論を下すことが出来ないでいるのである。例えば、有名な、しかもたびたび乱用される「空気がオゾーンに豊か」だというのは、人々が直接感覚的に言い出したか、または彼らの健康上の経験から筋道をたてて言いだしたのであって、多くの場合、温度、運動、湿気、気圧ないしニオイなどの点において、心理的に愉快を感じ、かつ触動的によろしくかなう、そうした空気の性質を備えるに過ぎないものである。冷ややかにして軽く動く乾燥した空気にして、さらに枯草のかおり、松柏[松とコノデカシワ、常緑樹、ときわ木]のかおり、森林の香りなどに満たされるときは、普通、「オゾンに満たされる」という。我々は実際、オゾンに富める空気の触動的作用についてはほとんど知るところがない。しかしただ、発電機によって発生させたような多量のオゾンのニオイは決して愉快なものではない、というのを知っている。もちろん空気中に普通に混じっているオゾンは、触動的に有利な作用をしていて、また、非常に希薄なオゾンは  <p91>  心理的に著しく愉快であるということは否定できない(ただし、濃厚なは芳香が変じて悪臭となる)。けれども、こうしたことに関する確実な知識は、私たちは未だ持ってはいない。しかしまた、酸素の欠乏による影響は少したやすく適えられたようである。例えば、森の中の空気に対して、海上の空気は酸素を多く含むが、その過剰作用に関してはオゾンと同じく、知られるところは少ない。空気の「清新」はまったく他の要因に関係しているかのようである。希薄な空気中において、人間に必要な酸素は、その割合ではなくて絶対量に依存する。そしてその量には一定の限界があって、それ以下ではいかに深い呼吸をしても捕捉することが出来ない。自由な空気中における酸素組成の割合の変化は、わずか千分の一を超えることがない。したがって、我々が遭遇する酸素欠乏の唯一の形式は、希薄な空気の場合である。今日、希薄な空気の作用はその心理的方面に至るまで、自然界において実験的に十分研究されている。けれどもそれは、気圧の章において詳しく説明するように、その作用は未解決の点が多いと言わざるを得ない。空気が希薄になれば、酸素と同時に窒素および二酸化炭酸ガスも減少する。そのために実際、いかなる作用が酸素だけの欠乏に原因があるのかを決定するのは困難である。  <p92>  とにかく酸素欠乏の心理的影響として多くの学者がおおよその一致するところは、衰弱の方面にあるようである。すなわち衰弱、勢力弛緩、疲労、無気力および心臓の鼓動、呼吸の切迫などの生理的興奮が相次いで起こるのを見ることができる。
    以上の解釈は、一般的な観察の機会としてもっとも適当な、密閉空間の空気の観察を理解する上で有効である。この場合、空気の夾雑部の腐敗は強く一様に進む。けれども人間が、次第に悪くなりつつある空気を呼吸しつつあるとすると、これに対する判断の誤謬は消失する[避けられない?]。なぜなら、この場合、判断を乱すニオイは極めて軽いニオイから次第に強くなって[繰り返しによる馴れ?]、十分に知覚できる強さに達しても、我々には全くそれを感じさせないからである。雑多な呼気の混入によって生ずる集合所の群衆のニオイは、非常なムカつきの感じを起こすものだが、群衆自身にとっては全く感じられないものであって、彼らはそれよりも、空気の組成の変化によって集ずる触動的作用、すなわち不安、弛緩、疲労などの起こることを先に感じる。狭い室内で眠るときに起こるこのような作用は、酸素の欠乏が原因と考えることが出来るだろうか。たしかにこの現象は酸素の欠乏によって起こるものと、とてもよく似てはいる。けれども他人数が  <p93>  集まった場合の酸素の消費は、決して夾雑物の変化の唯一の要素ではない。多くの場合において、温度と湿気とは同じような割合で増加する。その他、空気中の酸素の消失に伴って、さまざまなガスが発生して増加する。他の多くの夾雑物は自由な空気との割合上、重要な効果がないので、ここでは観察の必要はない。たとえばランプの燃焼ガスや、人の汗の蒸発水分などがそうである。けれどもその中で炭酸ガス[二酸化炭素のこと]は注意すべき量に達し、かつ、自由な空気の成分中の0.03~0.05%という少量であるけれども、またそれだけに見過ごすことが出来ないものとなっている。[二酸化炭素は、大気のうち約0.040%]
    炭酸ガスは多量に存在するときも、普通の嗅覚能力ではほとんど感じることが出来ないために、人に対して起こすその作用は単に触動的である。空気に他の混在ガスなく、また酸素も欠乏していないときに炭酸ガスだけが多量にあって、これを呼吸するときいかなる作用を起こすかは、われわれが先に知らなければならないことである。これは、ある洞窟、坑道、鉱泉、窪地などにおいて起こり、また、炭酸泉浴を過度にしたとき、および炭酸水を過飲して、胃から多くの炭酸を摂取した場合などに起こる。この場合、しばしば中毒作用が急に起こり、心理的作用は、全く脅迫的な生理的徴候の背後に隠れるに至る。  <p94>  この際に起こる苦痛は、ただ窒息の感じの表出に過ぎない。またこれは炭酸ガス特有のものでもない。中毒作用がすこぶる緩やかにおこるときは、それ特有の複雑な心的現象を起こすものである。すなわち呼吸および心臓の動作の攪乱によって起こる苦痛以外にも、麻酔状態に似ためまい、混乱し疲れ果てた状態を惹き起こす心理的興奮および緩んでだらけた徴候が混じってくる。
    しかしわれわれは、非常に多量の炭酸ガスが体内に吸収された際に起こる心理的現象、麻酔的めまいなどの状態からして、ただちに無数の些細で様々な場合において、同じような心理的効果を予期し得ると結論づけることが出来るだろうか。多数の人々が集まった室内の、普通の空気の汚れに際して、または田舎の良好な空気に対して、都会の汚れた空気中にいる場合などに、ただちにこれを応用できるだろうか。もちろんそれは出来ない。それは生物一般の一種の根本法則に過ぎないのである。こうして身体組織について考えると、強い刺激が同種の弱い刺激と全然異なる、またはまったく反対の作用をしていることを見れば、その効果といったものもまた、異なるという事を知らなければならない。厳冬の心理的効果が涼しい冷気の効果の倍数にはならない。また、暴風の心理的効果が微風の効果の倍数にはならない。  <p95>  これと同じように、特別の炭酸ガス中毒の現象の認識からして、炭酸ガスが通常よりもわずかに多く空気中に混じっていても、その影響といったものが、このように経験的に知られていない現象に対しては、確固とした断定を下すことが出来ないのである[??]。
    日常生活において、普通でない空気の組成、オゾンに富める空気、消費し尽くされた汚れた空気などをいかに取り扱うべきかの問題、ことに有名無実のいわゆる「健康地」が果たしていかなる効果があるのかを試すためには、心理的作用が実際に空気の組成を知る必要がある。ただ感情だけを高ぶらせるような感覚的に強い刺激のニオイの作用に惑わされずに、いかにわずかであっても、真の触動的作用を試さなければならない。自然の大気について言えば、こうした感じは等しく皆無である。しかし密閉した室内に限られた非常に異なる組成の空気については、以下のような経験をする。すなわちはなはだしく使用された空気は、不快、清新な精神の減退、疲労、憂悶などを起こし得る。その原因は酸素の欠乏、あるいは炭酸ガスの作用により、あるいはこの二者の結合した効果に基づいている。
    香料による空気組成の変化は、心理的過程の一定の範囲と特に密接な興奮的関係にあるようである。  <p96>  有名なスウァビア人ウォルイェーガーは、この関係を非常に奇妙な方法で解釈して、ほとんどすべての心理的興奮およびその相互関係は、すべて嗅覚の作用に帰すことが出来ると論じている。空気の組成の嗅覚的変化を、われわれ人類が考えるよりも別の意味で自然に解釈する、すなわちニオイに強く支配される動物を別にすると、情欲的興奮は主として嗅覚の効果と結合したもので、この場合、必ずしも特に愉快なニオイである必要がないことは、争う事の出来ない事実である。この場合、心理的な嗅覚刺激の連合作用が実際に存在するかどうか、または少なくとも触動的作用の、すなわち呼吸によって吸収したニオイによって生理的に伝達された中枢の興奮の一部分として、存在するかどうかは全く不明である。そしてこのような問題の範囲の特性によって、それは、容易には解明されないものとなっている。ここで注意しなければならないのは、このような場合の、ニオイに対する感覚的な感情の反応は、神経中枢の生理的状態によって種々様々に現れ得るということである。すでに動揺する性的興奮中に最高の愉快と性欲とを呼び起こす、同じニオイが、性欲遂行の後では明らかに反対に感じられ、ついにはこれを避けることがある。こうしてこの現象を解釈しようとする身体と心の結合関係は、すこぶる複雑となっている。  <p97>
    空気中に砂、煤煙、塵埃などが永く混じっているときは、人にわずらわしく面倒な気分にさせ、不愉快な作用を起こすことが著しい。けれども食塩が混在するときは反対の作用を現す。普通の人々は海の空気、「塩風」がわれわれの元気を回復し鼓舞する作用の最も主要な原因として、塩の混在を言う。けれども、非常に細かいカケラとして海浜の空気中に存在する塩は、ただ強く岸に打ち付けられて、飛沫となってほとばしる波浪が達する範囲内にのみにあって、海の空気の愛好者が普通想像するような塩分は、海浜の空気中には存在しない。ただ強風があって塩分を含む細砂または水滴を吹き上げる場合にのみ混在し得るのである。[これは間違いである。 海水の飛沫(ひまつ)やこれが蒸発してできた海塩粒子を多量に含んだ風がそうである。かなり離れた場所でも塩害を惹き起こす。] このような偶然によって空気中に混じったわずかな塩が神経に作用し、またそれが精神に作用を及ぼすかどうかは、理論的に明らかに言えないことである。けれども海の空気の一般的強壮作用に対して、塩はその標準的な要素でないことは確かである。また、塩水浴客が製塩所の近くに滞在するとき、しばしば感じる疲労については注意して考える価値がある。海水浴が非常に人を疲労させるのは人の良く知るところである。海水浴の後に起こる激しい心理的弛緩は、塩水浴の場合においても 
  <p98>    同じく、主に伝説的な「塩風」の作用によって誤[あやま]って帰せられることが多い。「生理的食塩溶液」として塩化ナトリウムが身体に必要なのは明白であるけれども、微量の塩が神経系統ないし精神に作用するという事は、自然になおざりにされるに至り、今まで特に異論を聞いたことがない。

      四  空気中の湿気
    水は、すべての三集合状態において空気中に含められ得る。固体としては雪、霰[あられ]があり、液体として雨、霧あり、またガス状態でも空気中に混じっている。気象学的な意味では、空気中の湿気とは、ただガス状態の水、つまり厳密な意味での水蒸気が空気中に含まれていることを意味している。湿気の意味を他に使用するのは世間の俗人が言う事である。こうして俗人が雪も霰もまたは雨をも空気中の湿気に含めるのは構わない。けれども、それに反して、水蒸気が凝結して霧状になるときは、偏見が生じてこれを「湿っている」という。この場合にも霧そのものは空気中の湿気とは言えないのである。空気が非常に多くの水蒸気を含むときは、われわれはそれを「湿潤である」と感じる。例えば降雨の直後、海浜および霧ある天候の空気がそれである。特に水滴の沈殿が始まる直前の空気は、その感じがもっとも大きい。    [p99]     
    われわれはここで気象学の用法にしたがって、空気中の湿気を、水蒸気が気体として空気中に含まれることとしてのみ解釈すべきか[水蒸気は気体です]。この判断は簡単な問題ではない。空気中の湿気が感じられるようになるということ、および気体としての水蒸気が液体に凝結することなどは、この場合、空気がガス体として感覚器官が知ることのできない「水」に飽和されたことを示している。水蒸気の空気中における飽和の度合いを「湿度」または「比湿」という。これに対して、空気の単位容積中に含まれる水蒸気の全量を「絶対湿度」という。こうして大気がその中に占めることのできる水蒸気の量は、温度によって異なり、高い温度ほど飽和点は上昇し多くの水蒸気を含む。反対に、低い温度の空気は、わずかな水蒸気でただちに飽和し、それ以上の水蒸気に対しては液体の水に凝結する。けれども高温度の空気は、多量の水蒸気がなければ飽和に達し得ないのである。

     [相対湿度:可能な飽和水蒸気量に対する実際の水蒸気量、水蒸気量/限界飽和水蒸気量。 絶対湿度:空気全体に対する水蒸気量の割合、水蒸気量/空気。]
[絶対湿度は 1m3中の水蒸気量をグラム単位で表し,相対湿度はある気温で現実に含んでいる水蒸気とその温度で水蒸気を含みうる限度(飽和水蒸気量)との割合を百分率で表したもの。相対湿度は気温の影響がかなり大きく作用する。]

この場合に起こる問題は、空気中の水蒸気の飽和の度合い[相対湿度]、あるいは空気中の水蒸気の百分比的含有量[絶対湿度]、あるいはまた、それら両者が肉体に対してどのように作用するか、またそれに伴なって心理的にどのような影響を及ぼすかということである。経験によれば、われわれの周囲の空気が水蒸気の飽和状態に近づくほど、   [p100]   身体からの水蒸気の放散は困難になる。この現象は体内の物質代謝に大いに影響し、そのために人間の周囲の空気の飽和状態は、繰り返される生活スタイルのリズムの中で、健康に対する非常に重要な意義を持っている。しかし私たちは以上のような空気の相対湿度、水蒸気の不飽和状態といったものが、身体に十分な水蒸気を放散させることができるかどうかという関係とともに、われわれの周囲の空気中の、水蒸気の百分比的な分量[絶対湿度]も、生活スタイルに対してかなり重要であると考えられるのである。人間は空気を呼吸し、空気は人間の皮膚表面に直接触れる。そうして、各単位容積中の空気に水蒸気の分量の割合が多いか少ないかによって、生活スタイルとその作用に対して何らかの影響を及ぼすようである。液体の水との接触は、温熱分配の影響によって身体と重要な関係を持つことは、最近の水浴療法が良く示すところである。また、俗人が言うところの湿潤な空気、すなわち霧深い空気のようなものも、生活スタイルとの関係から健康に対して無関係とは言えない。肉体の蒸発能力を決定する空気中の水蒸気の飽和度[相対湿度]と、それが空気中に占める割合[絶対湿度]と、そしてその空気の中をただよう液体の水によって湿っている場合とによって、それぞれがまったく異なる作用を身体に及ぼすのかどうかは、いまだ全く確かめられていない。   [p101]    これが確かめられれば「空気中の湿気」について、俗人の意味を採るべきか、あるいは気象学的な意味を意味を採るべきかを決定する上で、正しい解決の材料を得られるであろう。また、「湿潤な空気」の心理的作用が多少あるようなすべての経験において、その場合、いかなる種類の湿気があるのか、またはあり得るのかなどの判断の材料を得られることになる。
    空気中の湿気の心理的作用に関する個々の経験は、純粋な感覚的効果の観察にのみ存在するものではない。われわれの皮膚が感じる空気中の湿気の感覚的作用は、気温と空気の運動とに密接に関係しているというのは、だれもが知るところである。なお、我々は触動的な湿気の作用には少なくとも、温度の要素が錯綜しないという事を知っている[??]。天候形態の説明の際に、われわれは「蒸暑」の概念に遭遇した。蒸暑の際には空気中の湿気は、もっとも重大な要因として作用している。こうして我々は湿気を感覚的に意識しないときにも、蒸暑さの感覚があるところには、常に空気が水蒸気で十分に充満しているということを測定器によって知ることが出来る。われわれは乾燥した暑熱が、蒸暑さとは全く異なる作用を人間の健康に及ぼすことを知っている。けれどもその違いは、湿気以外にも原因がないのか疑問である。 [p102]    人はすぐに湿気の作用だと結論するけれども、その疑いは少なくない。大気中で暑熱と湿気が結合する際には、空気中の透光および電気などの諸要素が常に変化するのが見られる。蒸暑は好んで雲天を伴い、またその際に雷鳴を生ずることが多い。しかしまた困難なのは前章で述べたように、蒸暑の作用と混同されるほど相似た心理的効果を南風[フェーン]が起こすことである。しかも「南風」は暑い盛りには非常に乾燥しているというのが、その特色となっている。それゆえにまた、天候の心理作用を研究する際には、天候の要素に非常に注意しなければならないのである。 [意識して注意しなければならないのである。表面的で間接的な随伴現象にしか見えないものが、実はその本質や本体だったりするのである。]
    湿気の作用をわれわれに知らせる経験に、安全なものと半ば安全なものとの二種類がある。大雨の後、少しも涼風を催さずして、ただ地上に注がれた多量の水が暑い空気中に蒸発する際、われわれが感じるのは、半ば安全な経験に属するものである。人は、あるいは以下のように反駁することがある。すなわち冷気の遅延は、全体としての天候の状態、または、例えば電気などの作用が、なお未だ不快な作用を起こさずにいるか、あるいは心理的影響に多少の不快な作用があるかのような、そうした状態の徴候がある、と言ういうことが出来ると。    [p103]    しかし観察の結果は以上の反駁とはまったく反対である。われわれは蒸発量の多少にまったく正比例して、その蒸発がわれわれに対しる作用を感じている。たとえばアスファルトの街路上におけるように。何も地面に吸収されないために、その上ですべての降雨がみな蒸発されるようなところでは、もっとも強くその作用を感じる[]。敷石の街路はこれに次ぎ、砂礫の道はその作用がもっとも少ない。また、牧草地と潤葉樹[濶葉樹=広葉樹のこと?]は非常に多く蒸発させる場所で、それが我々に及ぼす作用もまた大きい。これに反して針葉樹林は、その頂きにわずかな湿気をのこすだけで、大部分は地面に吸収され蒸発の作用は少ない。蒸発の心理的作用は一種特別のもので、その作用は「重苦しい疲労の感じ」から成立するもので、これに伴い情緒的な不愉快と倦怠、知的な精神的疲労と動作無能、および感覚的なリューマチおよび神経痛などの随伴現象を起こす。これが実に蒸暑作用の類型的状態である。
    以上の作用の実際的例証は、密閉した空間の中での一定の状態によって見ることが出来る。これは天候とは全然関係のない、人工的な方法によって生じるものであって、 [p104]    室内や構内の蒸発状態がそうであり、それはまた一般の蒸暑的天候に比較し得るものである。熱湯で洗浄する「食器洗い場の空気」、「暖室の空気」、「浴室の空気」などがそうである。このような場所では、充満した高温と湿気以外に問題になる要素はまったくない。われわれはこのような場所に留まるときに受ける、すでに知られた作用、すなわち疲労およびその他の多くの随伴現象を、正しく温度と湿気との二要素に帰すことが出来る。またわれわれは、非常に高い気温だけでも疲労の主因になり得ることを発見する。この場合も、倦怠に支配された心理作用の状態を生ずる。さらに高気温に加えて湿気が侵入するとき、以上の作用がより強くなることは確かな事実であって、ここからわれわれは以下のような結論を導きだすことが出来る。空気中の著しい湿気による心理的影響は、心理的な弛緩[ゆるみたるむ]として現れてくるということである。
    このような弛緩作用というものが、ただ湿気と高温が結合する場合だけに観察されるというのを、他の経験から否定することが出来るだろうか。湿潤にして寒冷な天候は、人に不愉快な感じを与える。こうした地理的および地勢上の条件からして、    [p105]    このような天候の続くときは、人をして陰鬱にすることが多い。けれども、この天候の触動的作用[生理作用のこと?]については何も述べることがない。ある感覚的現象[生理作用]は温度の暑さ寒さに関係なく、同じように、湿潤な天候にまったく粘着しているように見える。リュウマチと神経痛は、空気中の湿気の増加によってただちに苦痛の襲来を感じる。二者にとっては、湿潤な暑い天候も、湿潤な寒い天気と全く同じ影響を生じる。そしてこれらの唯一の差異としては、神経痛は乾燥した寒冷な天候においても多くの痛みを感じるけれども、リューマチはそうではないという点にある。
    先にわれわれは降雪前の沈鬱の状態、および一般に低温度における一種の「蒸暑」について述べた。空気が水蒸気で飽和されることが、寒冷な天候においても、湿潤な暑い天候の心意的作用[心理・生理作用]とよく似た心意的作用を生じさせるという事については、何ら明らかな証拠はない。しかしまた、全く関係がないとも言えない。なぜなら、上の現象は常に孤立したものであって、広い範囲に雪または雨がふって、そして水蒸気がまさに凝結する直前の状態に限られたことのように思えるからである。われわれはこうした心理ないし生理作用が、降り出しが始まると共に、にわかに開放されるという事実を見る。    [p106]    こうした経験についてよく考えてみると、私は、水蒸気による寒冷な空気の飽和状態といったものが、心理的な倦怠作用と関係があるというのは、困難だと感じる。われわれは今日これ以上の事実を知らない。しかし、その一部分の原因として確実だと思えるのは、電気の作用である。なぜなら電気は、水蒸気が凝結する際の最初の成型原因として働くからである[原因でなくて結果?]。
   このような寒冷にして湿潤な空気の場合、特殊な蒸暑作用が一般に欠けるという事実からして、この主要な原因を湿気に帰すことが出来るかどうか。私は「帰すことが出来る」と信じている。そうして先に考えなければならないことは、気温の暑い空気は、寒い空気に比べて、飽和点に達するまで多量の水蒸気を含み得るが、要するに、気温が暑い際の飽和空気は、その中に非常に多量の「絶対的」な湿気を含んでいる[1立方メートル当たり、ゼロ度の時は4,8g、37度の時は39gとなる。約8倍]。こうしてわれわれは電気または熱などの要素の偶然の影響を排除出来ないけれども、しかし少なくとも以下の説明が可能であると考えられる。すなわち、われわれが湿潤にして高温な空気の状態の作用として知られている心理的倦怠は、この絶対的に多量な空気中の湿気の作用に帰すべきであると。この説明は、暑熱の空気が飽和する以前に、   [p107]     すこぶる長く蒸暑の特性を表すいう事実、および寒冷湿潤な空気は概してこのような現象がないという事実とよく一致している。これは、飽和状態の湿気というのが、寒冷なときは非常にわずかであって、暖かくなるに従って加速度的かつ急激に増えるからである。しかしまた、こうした説明は可能ではあるけれども、その真偽を明言することはできない[??]。

      心理的[および生理的]倦怠の理由は身体の水蒸気放散の減少が原因とは考えられない。肉体の水蒸気放散は身体と周りの空気との温度差に従うが、その心理的影響は、空気中に含まれる飽和水蒸気の比率が大きい時に起こると言わなければならない。また日射病なども、決して水蒸気の排出が出来ないために起こるのではないようである。もしもそうだとすると、寒冷にして湿潤な飽和状態の空気の中で、多量の飲料水を取る人は、同じような現象を起こすはずであるが、実際にはこのようなことは起こらない。
    ルプナーは空気中における湿気の作用の正確な観察をしている。これによれば、摂氏24度の時、80%の空気中の湿気は静止した人に対しては、心意的[心理的・生理的]にほとんど耐えがたいものであって、不安、苦悩、憂悶、疲労などを起こす。身体の安静のためには、静止した空気と軽い衣服と、そして18度の気温と40%の湿気とがもっとも気持ちがよい。

    空気中における水蒸気含有[絶対湿気量または相対湿度あるいは浮遊する霧などの液体の凝結水]の関係においても、あるいは水蒸気の凝結がすでに始まった場合においても、     [p108]     触動的作用の確定は、感覚的作用によって著しく妨害される。霧または雨天の場合のように、空気中に湿気が多く含まれる際には、常に同一の意味を持つ作用が観察されないことは、われわれの良くしるところである。普通の気温の際の霧は、容易に蒸暑の作用をひきおこすけれども、寒冷な気温の際の霧は、このような作用をほとんど起こさない。もちろん、われわれはアルプスの登山者が、寒冷と霧とに苦しめられるとき、間接の原因によってしばしば起こるような「沈鬱状態」と、蒸暑の天候、たとえば中和な気温の風なき、霧深い天候において、天候に敏感な人々が起こすような「沈鬱状態」とを同じものと決めてはならない。寒冷な気温の場合には、霧は寒冷に特有な心理的エネルギーの損失、すなわち、凍結作用を著しく強めるように感じられる。こうして霧深き寒風は、風激しき寒気とともに、凍死の危険の主要な一原因となる。こうした事実は、湿潤な寒気が乾燥した寒気よりも、寒気の、生命に有害な効果をなお強く現わすためであると理解すべきか(感覚的にも、霧深き寒気は特に身を切るように感じられる)、または、霧が太陽光の透入を遮断するために、不良な影響を起こしたのだと言うべきか、または、常に霧の発生の条件となる、      [p109]     地勢・地理の一種抑圧的な作用がその原因の一部をなしている考えるべきかなどは、なかなか解決が困難な問題である。また厳冬の際の降雪は、弛緩的な寒冷作用を強める。降雪はその結晶が人間の皮膚に急激な苦痛を与えることによって、霧や細雨[きりさめ]と同じように液体の水で身体の表面をぬぐうように作用する。人間が雪中にあって特別に危険を感じるのは、風が激しく歩行や視界などの困難によって、生理的努力を異常に増進させるからである。これらすべての場合の経験において除外できないことは、湿気の弛緩作用が、あたかも寒冷の作用に加わって影響しているように見えることである。

    [霧深い寒風は、乾燥した風激しい寒気よりも、かなりマシである。霧が出るというのはまだ暖かいからで、また霧の発生自体が熱を放散している(凝固熱)。これがホントに気温であれば、霧は粉雪となって氷になる。これがホントに寒いのである。粉雪混じりの凍り付いた大気がもっとも寒いのである。これに風をともなうとなおさらである。風は身体表面か熱を奪う。また、霧がホントに寒いのであれば、霧は凍って大気中を漂う]

    五  空気の圧力
気圧は、科学的にも通俗的にも今日、およそ一般に観察される天候の一要素である。この観察は気象学者の等圧線の観察から、また一般の人々が不正確な室内晴雨計によって、晴天または雨天などを知るといったような単純なものに至るまで様々な差異がある。そしてこの気圧の関係から天気予報は数多くに分類される。こうして専門的な気象予報者は、気圧が天候に及ぼすある重要な徴候をもって、天候の変化の原因と考えるにいたった。    p110]    このように気圧が気象学的に重要な価値を有するところから、これが心理的にも同じように大きな価値を占めると考えることはできない。気圧は天候に対して非常に大きな影響を与えるが、人間の心理や生理に対してはなんら影響を与えることがない、ということもある。これは空気の組成と全く反対である。もしも学者や大衆によって気圧の作用が著しく高く評価されるときに、それがわれわれの研究に何らかの利益を与えるとすれば、それは以下の点にある。すなわち彼らは長期間にわたって気圧の変遷を非常に精密に観察した事、そしてその測定に使用された機械もまた、大衆の信用を得ることが出来るということが、そうである。この場合、気圧と気温とは同格に扱われ、それらの器械的測定の正確さもまた相似たものである。しかし天候に対しては、気圧は気温よりも重要である。なぜならわれわれは直接感覚知覚に現れることのない、こうした天候要素の観察を試みる者だからである。われわれは空気の寒冷と暑熱、安静と動揺、純粋と不純、乾燥と湿潤などの区別を、自分の知覚によって直接、昔から知っている。少なくとも人間は以上の区別を注意して来たから、これを知っているのである。しかし気圧については、我々は始め科学から多少の知識を得ている。気圧の存在ははなはだ複雑な現象であって、     [p111]     これを理論的に導きだせるとしても、われわれはただ器械によってその状態を経験し得るだけである。
    われわれ人間は気圧の感覚をもっているだろうか。もちろんわれわれは空気の希薄と濃厚とが、我々の身体に及ぼす作用といったものを、直接の知覚と混同してはならない。実に、われわれは科学的認識の基礎に立って初めて、このような作用を気圧に帰せしめたに過ぎず、これは知識による間接の感じ方である。直接の感覚でも知覚でもないのである。ならばわれわれは直接の知覚によって気圧を感じることが出来る一つの経験もないのかというと、多少似たような経験がないとも言えないのである。高山に登る多くの人々は、次第に軽快な感じがしてくるのを覚え、あらゆる種の重荷を降ろしたように感じる。これに対して反対に、高山から深い谷に急に降りるとき、全く一様には言えないことではあるが、しばしば非常な重荷を負わされて、圧迫されるような感じがある。こうした感じは情緒的な意味だけでなく、感覚器官の直接の知覚でもそう感じられるのである。また、気圧についてまったく知らない人でも、山の空気は谷の空気よりも軽いという直接の印象を、この場合に受ける。[感覚とは、刺激に対する直接の神経作用。知覚とは、この感覚が意味付けされた間接的な作用または世界。]
   しかし、こうした経験がまったく反対の結果を示すこともある。    [112]    気圧計が次第に増加を示すような場所では、一種の軽快な感じを覚える。もちろん、人間はこのようなときに、強く印象されるような軽快な感じを多くの人々は持たない。しかしまた、同じ場所において、気圧計が気圧の減少を示す時には、抑圧されたような「重い空気」の感じを起こす。気象学と精神病学で共に用いられる「沈鬱」という言葉は、この二通りの科学においてまったく相反するものを表している。すなわち心理的沈鬱は強い圧迫の感覚であって、そして気象学的沈鬱(低気圧)は、気圧の低下を表している。人間は実際、直感的にこのような感じを受ける。特に天候の影響を感じやすい人々は、低気圧と共に心理的沈鬱を常に感じるのは言うまでもない。実際このような事実は非常に注意すべきものであり、特にそれは人が演繹的[一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る論理的推論の方法]に仮定していることと全く反対であって、気圧の現象、すなわち軽い空気が我々に強い圧迫の感じを与えるのである。しかし実は、こうした現象は特に注意する必要があるだけでなく、また、我々がこれを空気の重さの直接の知覚として説明しようとするときに、まったく説明できないものなのである。こうして山頂と谷底のような高度の変化の場合に起こる気圧の差を比較すると、こうした場合のわずかな気圧の変化が感覚の動揺を生むために、     [p113]     その現象を単に気圧の差だけに帰すことが出来るかどうかは、きわめて疑わしい。ある一定の場所における気圧の変化は、10mmから20mmを超えることはほとんどない[標高100につきおよそ10mm程度の気圧の低下が一般に観測されている]。この差は、100m〜200mの標高差の気圧の変化に相当する。しかし、このようなわずかな高度の差によって、空気が軽くあるいは重く感じられると主張する人はいない。そうしてこの問題は実験によって確かめられることになる。気圧実験室における気圧変化の心理的[および生理的]作用は、精密に観察することが出来る。その結果、以下の事実を言う事が出来る。すなわち空気の濃厚または希薄は、決して、知覚によって示すことが出来るものではないと。気圧は感覚器官的な天候要素ではなく、触動的・生理的な感覚要素であると言える。[あるいは印象的・象徴的・符号的要素が錯綜し、連携・連続し、重層的に入り乱れて、それだけで独自で固有な観念の世界を作り出している。つまり錯覚と象徴の世界であると言える。]
    こうして、天候の変化と標高の変化の際に起こる、気圧の二通りの作用の間の注目すべき対立は、永久に解決されないように思われる。しかしまた、その強度の差は質的に相反するけれども、その強さ自体はほとんど同じような効果を生むのであって、こうした事実から、純粋あるいは主要な問題となるのは、気圧の作用によって、「他の要素」が、それぞれの場合に気圧の作用を強め、弱め、混乱し、高揚し、あるいは服従させるものであることを知る。    [p114]    そうだとすると我々は、天候変化と標高変化との二通りのうち、果たしてどちらに偽りなき心理的気象作用[の原因]を求めることが出来るだろうか。[どちらというのは誤解である]
    この問題の実験的研究は、われわれが望むような、容易な解決はできないように思われる。気圧実験室で気圧を下げたとき被験者は、心意的[生理的・心理的]が増進するような状態を生み出す。疲労、感覚脱失、昏睡的作用が生じ、ついに睡眠するに至る。この場合、軽い頭痛、または軽い心臓の鼓動のような生理的興奮の徴候はまったく現れないことがあるが、しかしまた極めて軽く現れることもある。天候が険悪となるときは既にの述べたように、心理的弛緩状態を生じる。しかし、これと同時にまた興奮の徴候が著しく混じっているのが常である。標高の変化の際には興奮は生じない。だとすると、心理的・生理的な気圧の作用を表出させるのはいったいどちらなのだろうか。私は先に、天候変化の場合と同じような実験において起こる強さの、著しい違いについて考えなければならない。3000m〜4000mまたはそれ以上の高山に登る場合と同じ状態を実験室内で再現するときの経験は、――これは天候変化の場合よりもはるかに実際に似ている[なぜ?どこが?つまり標高の変化の場合と似ているという事であって、天候変化のことではないという意味?]――ただ、気圧実験室の気圧の差が実際の場合と同じ時に、    [p115]    ほとんど同じ作用を生じている。このように、天候変化の時に起こるような気圧の変化は、実験室内では何らの心理的作用をおこさないのである。少なくとも現在知らている限りではそうである。したがって、気圧の二義的な関係は一つに帰すことが出来ると言える。すなわち、天候変化の際に起こる健康状態の変化の主要な原因は、決して気圧の変化によって示されるものではない、ということである。そしてその原因は主として、他の天候要素に求めるべきである、ということである。
    実験的に発生させた気圧の減少による心理・生理的変化は、自然界では3000m以上の高地において著しく生じるものであって、4000m以上の高地に登れば、世間で山岳病[=山岳病、酸素の欠乏が原因]として知られる心理・生理的弛緩の現象を常に起こす。そしてこの場合の弛緩状態は、被験者が筋肉運動を少なくするほど純粋に再現する。なぜなら、このときの筋肉的運動は、興奮[弛緩?]の徴候をその中に混じらせるからである。[興奮するときは、より強く弛緩状態になるということか?それとも興奮しないから弛緩状態になるのか?] 気球に乗って一艇の高度に上昇する際に起こる一種の疲労状態も、こうして実験室内で発生させたものと非常によく似ている。また固有の意味における登山者の病気も、それに相当する高さに達したときには、正しく生じている。実際、登山するときには、各種の興奮状態によって、    [p116]    弛緩状態がよく混ざり合っているのを見ることが出来る。しかし、非常な高度に達するときは、弛緩が興奮を圧倒することが多い。登山者が遭遇する各種の困難、たとえば過度の疲労、飢餓、心配、寒気などのほかに、希薄な空気が混じるときは、ただちに山岳病[高山病]として認められるのは、よく知られた事実であって、また理解も出来るところである。しかし、もっとも典型的な山岳病の症状としての、激しい気圧の減少の際に起こる心理・生理的弛緩は、きわめて明白である。


        山岳病を誘発する激しい寒気の影響、空気の上層をイオン化させる放射能の作用[???]の直接または間接の影響、新たに降り来る雪などの作用を挙げることが出来る。けれども、これらは概ね偶然の原因であって、それが常に作用しているとは言えないものなのである。またその作用の詳細についても明らかでないことが多い。

    約0.3〜0.4気圧に至る気圧の激しい減少を、筋肉運動をあまりしない人々に作用すると、純粋なカタチで心理・生理的弛緩を生じる。そうだとすると、われわれはわずかな高さに昇るときに起こる興奮を、このわずかな気圧の減少による山岳病的傾向と認めるべきだろうか。実験的研究によると、疲労の前駆としての興奮状態は認められない。しかし実験の場合は、その状態が展開する時間が非常に短いために、そう認められないだけではないだろうか。    [p117]    弱い刺激は徐々に作用し、強い刺激は瞬間的に作用する。そうだとすると、気圧実験室では、興奮の意識があたかも飛び超すように過ぎて行ってしまうこともあるのではないだろうか。また他面においては標高の変化、すなわち登山の作用とは別の、十分な興奮作用をもたらす要因がないのかと疑うことも必要である。実際、他の要素は確かに存在する。前述の筋肉運動による実際的証明がこれである。清新な空気および地勢の印象などは、これに注意すべき刺激を顕し、その心理的効果は興奮作用に限られる[抑鬱、弛緩もある]。こうしてこれらの要素が中程度の高山に登った時の興奮状態の一部の原因として認められるのは、以下の経験によって知り得る。すなわちこの興奮は決して到達した高度に比例して起こるものではなくて、少なくとも身体の状態、温度の関係、地勢の特性などにも関係して変化しているものである。人間が100mの標高を起点として登ったときに、1000mの高地の温暖な溪谷[=谷とは、山や丘、尾根、山脈に挟まれた、周囲より標高の低い箇所が細長く溝状に伸びた地形。成因により構造谷と侵食谷に分類される]よりも、500mの荒れた高原上において強い興奮を覚える。[これは憂惧と高揚の違いであって、緊張と弛緩の違いではない。憂惧と興奮のどちらも緊張も弛緩もする。興奮して緊張したのか弛緩したのか分からない],[脅威を感じるような谷間で緊張し興奮することも当然あり得る]。もちろん様々な心理現象中には気圧の差だけで説明のできないことが常に存在する。例えば標高1000mの高さに    [118]   鉄道などによって意識することなく高地に上昇するときに現れる、非常に規則的な心理的興奮は、気圧の変遷以外の原因では説明が困難である。これに対して気球に乗って上昇する人々が起こす興奮は、他の原因によって十分に説明が出来る。例えば飛翔の快感、不安、心配、抑圧された憂惧のようなものがこれである。こうして日常の交通に安全な発動機を装置した飛行船が登場したことによって、始めて純粋の空気希薄の効果に関する観察ができるようになったのである。かくして約1/3気圧に至るまでの気圧の減少は、実際、軽い心理的な興奮作用を起こすのが認められる。しかしまた、さらに気圧が減少する際に起こる弛緩作用は、より確実である。
    自然界における気圧の増加は、高地から低地に降りるとき、または天候の変化の際に生ずるものである。これら二通りの出来事から観察される心理的作用から、気圧の作用のみを完全に分離することは不可能である。その理由は、私が気圧の減少の際に説明したことと全く同じである。[他の感覚的な印象や、その場の出来事の連続した偶然や錯覚が、心理的な作用を支配している]。
    人工的な気圧の増加は、潜水装置の場合に様々な方法で使用されていて、    [119]   それはまた現代の地下鉄および給水工事などに重要な装置として使用されている。気圧増加の特有の効果は、胸部の圧迫の感じ、および耳の中の刺激などの感覚的現象として知られている。

[潜水病:海中の高圧下では、体積が大変微小で体液中に溶けていた気体が、海面への上昇による急激な減圧により体積が膨張して大きな気泡を生じ、これが血液内で起きると血管を塞栓し、循環器系に血行障害をひき起こす。]

水底工事の際に起こる「沈水罐病」(鉄製の沈水罐に入って作業する人々に起こる)心的な複雑な徴候も空気が濃厚になる結果ではなくて、濃厚な空気から希薄な空気へと移る場合に起こる結果である。濃厚な空気の場所に居て、急に通常の空気中に帰って気圧の減少に合うときは、非常に苦しい病的な状態を伴うことが多い。気圧変化の圧迫の下における心理的変化については、なんら特殊な現象が認められない。
    気圧実験室での気圧増加の場合には、その増加が適当な間は愉快な満足の状態および精神的に清新な感情を起こす。けれどもある一定の気圧の限界を超えるときは、徐々に感覚的障害を惹き起こす。気圧のわずかな変化を心理的に観察するとき、それが興奮と弛緩のどちらを多く持つかということは、いまだまったく知られていない。われわれはおそらく、その時の心理的状態をこの二種類の範疇内に強いて編入するは出来ない。実際、自己観察の結果から見ると、    [p120]    こうした感情は一種特別な感じを持っていると言える。

      きあつ変化の影響は空気の組成が変化するためだと言う人がいる。けれども、気圧が減少する場合、空気中の諸成分は同じ割合で現象するのであって、その中の一要素が特に著しい作用を現すという理由にはならない。[割合は同じままでも量そのものが違うと深刻な影響をもたらすことも十分あり得る]

        六  空気中の電気
    空気中の電気の心理的作用を確かめるためには、われわれは今まで述べて来た各種の要素よりも、それとは別のさらに複雑な材料から、不完全な結論を、二三の非常に粗雑な経験を頼りに探して行かなければならない。なぜなら、この場合には、空気中の電気の状態の進行を正確に観察すべき、寒暖計、風速計、気圧計、湿度計などの機器もなく、また数々の腐敗ガスを感じる鼻、および寒暖を感じる皮膚に相当するような、直接電気を感じられるような感覚器官は人類の身体には存在しないからである。ただ、われわれが見たり嗅いだり聞いたりして知ることが出来るのは、電気の放電現象のみである。そしてこの放電の現象は多少情緒的な反応を惹き起こす。しかしそれは触動的[生理的]電気の効果によって、非常に混乱させられている。このような状態は、既に雷雨の際の心痛の解説をしたときに示したところである。[    p121    ]
    空気中の電気現象は、船の帆柱から空中に向かって放電する「帆柱放電」、および雷雨の両現象の際に、感覚器官によって知覚することが出来る。しかし、帆柱放電は何らの心理的作用を起こすことがないようである。
    雷雨が及ぼす心理的作用はすでに前に述べた。その作用は見て聞くことのできる、空中電気の中和現象の起こる際に現れる。また一定の空中電気が荷電状態にあるときにも現れる。しかしこのような荷電状態は、常に一定の温度の状態と結合し、また気圧の一定の状態と結合することも多い。こうして電気の作用は、全体として結合された連携作用の一部分として現れている。また、湿気の多い暖かい空気、すなわち蒸暑の場合には、雷雨発生の際に現れるような電気現象を全く伴わないときにも、われわれの心理的健康の上にまったく同じような作用を及ぼす。
    雷雨のときの空気の効果と特に似た作用が、南風[フェーン]によって生じるのは特に注意すべきことである。すなわちフェーンのときは、雷雨の空気または食器洗濯所の空気と比較すると、湿気の要素を欠き、さらに非常に乾燥した暑熱の効果が生じる。[    p122    ]南風、もしも、フェーンの乾燥した暑い動く「空気」が、雷雨の際の空気、すなわち湿潤で暑く、静止した空気と同じような作用をするならば、または単に乾燥した暑い空気が、フェーン[南風]および雷雨のときの空気と同じような作用をしないとすれば、フェーンの作用と雷雨の空気の作用との共通点は、暑熱以外のフェーン[南風]および雷雨の空気に共通した一つの特性によるものと考えなければならない。
    ここで、電気に関する二種類の要点を示すことが出来る。第一に、フェーンの空気が強く帯電しているのが、最近確かめられた。第二に、絶えず議論のタネになって、かつ、常に個々のフェーン観察者によって引用される経験であって、フェーンが特にその吹き始めに、電気の火花放電、または強く摩擦する物体に見られる一種特有のニオイをもつということである。
    しかしわれわれはすべての経験からして、想像上の結論以上のものを導きだす、ということが出来ない。しかし、フェーンおよび雷雨の空気の心理的効果として知られている、特有の興奮と弛緩との混在および鈍い不安などが、この二つの天候の形式における電気の特性に基づいているということは、われわれが見過ごしてはならないところである。    [p123]    
    雷雨のときの空気、およびフェーン、そして多分すべての蒸暑の場合にも、心理的に特殊な作用をなす要素は電気的なものであるという、こうした想像に関する一つの確かな証拠は、前に述べた降雪のときにおける空気の、フェーン[南風]的ないし雷雨的な要素に基づいて提供される。激しい降雪は、少なくとも一部分は確かに雷雨に似た過程をもっている。そして実際しばしばカミナリを伴うことが多い。

        七  空気中の放射線。

[ 放射線とは、高い運動エネルギーをもって流れる物質粒子と高エネルギーの電磁波の総称]

   我々は現代物理学の中心問題を「放射線」というコトバで示すことが出来る。「放射熱」(=輻射熱)というコトバは今は採用されてはいない。これに反して過去二十年間にかつては知れていなかった若干の放射線が発見されている。そしてその特性は自然研究の根本概念をも動揺させている。その中、多数のもの、たとえばレンツェン[レントゲン?]線および放射能は、その生活に及ぼす作用の重大さから非常に熱心に研究されつつある。そしてこれらのものが、気象学的にどのような作用を及ぼしているかは、実際まったく不明である。しかしながら、空気中の放射線の「模範的」形式は常に、太陽の光線すなわち「空気中の透光」である。
    すべての天候要素の中で、空気中の透光が「風景」にもっとも密接な関係をもっている。    [p124]    「風景」は始めに視覚の刺激によって成立するために、その関係は自然の結果である。それゆえわれわれは空気中の透光に原因し、それによって正確に研究することのできる様々な作用を、ここで見過ごしてはならない。光が及ぼす、人間の感覚器官とそれに基づく知覚によって生じるすべての感情興奮は、ここに述べようとする作用に属さないものである。例えば、赤色の興奮作用、青色の鎮静作用、黄色の快感、薄緑色の寒い感じなどは、みなそうである。これらはみな風景の要素なのである。したがってここで問題にする作用は、ただ盲人にもなお現れる光の作用に限るものである。こうした見地からすると、空気中の透光は、不分明な大気的天候要素の中に数えるべきものである。
    これらの作用の心理的表現については、われわれはそれがきわめて徐々に、長期的な反応に現れる。日光の欠乏は生活機能、特に血色素の科学作用に障害を及ぼす。こうして貧血および栄養不良をもたらすと共に、心理的な神経過敏において、強い疲労、無関心・無気力、そして陰鬱にして不愉快な感じを生じる。このような様々な状態は、学者および北側の住居に住む人々にしばしば現れ、また極地およびその付近の寒帯地方の冬において、常に繰り返される心的作用としてもっとも典型的なものである。    [p125]    植物の性質も以上の作用とほとんどよく似た影響を受ける。実際、人は植物において巧みな方法で過剰な光を忌避するのを発見する。直接日光に当たれば、多くの植物は自己を隠蔽しようとする[?]。これに反して多くの動物は日光を好み、それを求める。人類が日光を好む原因は、光線自身の作用によるか、または投射光がもたらす熱によるものかを決定するのはきわめて困難である。人が頭部を保護して、常に直接の日光を受けて生ずる興奮状態、および電光浴で知るところによれば、このような作用を起こす決定的な要素は、常に高熱の生成にある。また、なるべく純粋な光線の作用を保存するような他の経験、たとえば皮膚病または凍傷に施す弧光療法では、ただ生理的効果のみを現している。赤色または青色の光が人間の身体を照らすとき、目でこれを見ることなくして、興奮または鎮静の作用が生ずるかどうかは未だハッキリとはわからない。しかし高山の冬における心理的興奮作用においては、この作用の享楽は現今大いに流行っているのであるが、強い空気中の透光も関係しているようである。また、極地の夏において、極地の気候における空気の特性によって助長された、ほとんど間断なき、    [p126]    非常に豊富な空気中の透光が存在するのは、特に注意しなければならない。極地の心理的浄化作用は、多くの識者によって熱心に叙述されていて、ついに極地気候療院の設立が奨励されるに至っている。こうして極地の夏は、永い冬の間に消沈した心理的弛緩を十分に回復するのみならず、またその強い透光を有する空気によって、有力な興奮と衛生的・鼓舞的な作用を営なんでいる。このような収支償って余りあるゆえに、ヨーロッパに近接した北極圏内には、非常に生活力に富んだ国風が存在する。

    < 明るく照らされた空間は、一定の絶好域に達するまで、人に愉快な活気を生み出すという事実は、「照輝」の結果と考えることが出来る。これは一種の「風景の作用」、すなわち感覚への刺激と、それによって起こる情緒の結果と言える。けだしこれらの作用は、ほとんど光の色とその配色に関係している。特にその配色は、すこぶる決定的な効果を生み出す。一個の電気単光灯は、このような効果を少しも現さないけれども、多くの灯光を配列して、全体として大きく光り輝くときは、以上のような特有の作用を現す。
  寒帯地方において、盲者がその冬と夏との間の健康状態の区別を感じ得るかどうかを試験するのは、きわめて興味のあることである。そしてこの問題で肯定的な答えを得られたならば、空気中の透光が触動的な方法によって、心理的作用を起こしているのは確実である。しかし著者の接した参考書類には、この点に関しては何物をも発見することが出来なかった。    [p127]    多分、以上の暗示は、スカンジナヴィアの読者を啓蒙するところがある。
    レーマンおよびベンダーセンの研究によれば、この場合の光の作用については、心身的実行能力が空気中の光線の分量に正比例する、と総括している。  >

古来、通俗の信仰としての月の光は、直接の特有な心理的作用を起こすものとされてきた。この場合、われわれは心理に対する感覚器官の作用を先に除外しなければならない。すなわち月が全体としてその周期的変化によって、地上の生物に及ぼしてきた影響は後章で詳述ので、ここでは省略する。いまはただ特異な影響力としての、月の光を観察しようとするのである。その作用は、もし雲が月影を覆うときはただちに消滅し、または衰弱するというものである。また我々は、これらの光の作用に関する俗信仰は、特殊な心理的状態としての月夜狂[夢遊病?]と結び付くのを知ることになる。

        <これと共に考えられるのは睡遊、つまり夢中遊行である。その状態の比較的軽いカタチは声高き寝言、寝笑い、寝泣きなどで、多くの人々、特に活発な性質の人によく現れる。そして、神経症の小児のような叫び声を夜に発して、しだいに神経過敏となり、    [p128]    遂に寝床を離れ普段と変わらない動作を遂行し、あるいは窓を飛び越えて散歩するなど、様々な行動をする者が多い。普通の「月夜狂[夢遊病]」は、ただ一種特有な遊行をするだけである。例えば、寝室に入射する月夜の光源に向かって遊び行く、といったようにである。このように多くの場合に我々が実験的に、睡遊の方向を、たとえば隣室に向かって導こうとするには、隣室との境いの窓の外、一切の窓の光を遮断して、隣室にランプまたはロウソクを点灯して置くと、夢遊病者はその光の方向の窓を打ち開いて進む。また他の場合には、寝室内の人工的な薄い光は、睡遊に対して予防の効果を為すことがある。これは、神経質な人々にとって、まったくの暗黒な室内では著しい不安を感じ、安心して眠れないからである。古く昔から人々は、睡遊の主な特徴と信じられてきた、屋根の縁または溝のハジに沿って遊行するのは、この場合には偶然に行われたものなのである。人々はこれを月光によって引き起こされた月夜の特殊な能力と考えたのである。実際、このような遊行が無難なのはとても稀であって、従って睡遊者が失敗することもはなはだ多いのである。しかしこの場合における特殊な熟練は、明らかに危険に対する知覚の欠乏と関係している。[感覚器官だけが有効であって、それを知覚し判断する能力が失われている。]人間が実に無我夢中のの状態にあるときは、きわめて勇気に富むものであって、そうしてこのような冒険に成功するのである。そして夢遊状態から覚めたときには、また夜泣きから覚めたときにも、多くは心理的混乱状態を現している。夢遊者がもしも危険な場所にさらされると、もちろん激しい恐怖の情を起こし、また夜泣きの児童の場合にも激しい不安を起こすのが常である。また、通俗の規則として、夢遊者には決して呼びかけ、または他の方法で妨害をしてはならないとされている。     [p129]     同時にまた、いわゆる秘密に満ちている夢遊病の状態に対しては、種々多様な神秘的解釈が試みられている。 >

    月と夢遊病者の、こうした心理状態の因果関係について、とにかく疑いのないことは、月が光源として夢遊癖のある睡眠者を興奮させるということである。しかしまた、これと同じような光源はどんなものでも、こうした作用を惹き起こし得るのである。またこの場合には多分に非常な神経過敏を伴う。月光の輝く深夜、空想に富める神経質な人は、月夜の風景の陰りのないあからさまな魔力と、そこから空想的に形成される象徴的な幻との作用を受けるに至る。実に月光が「妖魔を生む」力は非常に強い。そうだとすると、夢遊の周期と月の満ち欠けの周期とは一つの関係を有するけれども、しかしまたこれは、月の光の作用とは無関係であるいう[間接的・派生的・連携的・連動的などの関係はあるちうことか?]、一種の関係の成立も可能になる。しかしこのことは後の章でまた述べることにする。また肉体[有機体]に対する触動的な光の作用が、生活機能と心理作用の上に、月の満ち欠けのカタチに相当する様々な影響を与え得る、というのはいかなる場合にも全然根拠のないことである[??、これは触動的・感覚器官的・生理的という意味?]。
    このようにして、空気の放射線[この場合、著者は放射能でなく電磁波一般のことをいっている]の心理的作用に関する我々の知識はおおよそ次のようになる。すなわち肉体[有機体]に対する日光の直接の一定量は、その生活機能およびそれに伴う心理的健康、     [p130]     並びに精神的な実行能力を最適に保つためには、きわめて望ましいということである。
    空気中の透光の外に、今日、精神的・心理的に有効な天候要素として考えられる他の放射線の形式として特異なものとして二つある。紫外線と放射能がこれである。紫外線は肉体表面の組織を破壊する作用の方面から多く研究されたが、心理的現象との関連では今日まで詳しく述べられたことがない。

[オゾン層は、生命活動で生じた酸素に太陽からの紫外線が作用することによってつくられた。オゾン層が太陽からの紫外線を吸収してさえぎる]

その間接の作用は、オゾンの形成を促進する作用によって現われるものであるが、その作用については、ここだけの話にとどまらない。また、下等動物の観察から人類に対する何らかの結論を導き出すということもできない。けれども、ある生物が紫外線を知覚する能力を持つことが分かっていても、この紫外線と純粋の感覚器官の作用とがいかに関係するかは、我々にとってみれば、まったく知らないところなのである。
    ラジュウムなどの放射能は、現今の生理的療法の流行物にして、可能なすべての生活力的効果をその効能によるものとするのであるが、我々が前に述べたように、また、山岳病 [高山病]の説明にも引用されたことがある[??]。アルプス山脈のある地方において、    [p131]    山岳病の傾向が特に強く現れるというのは、ほとんどだれもが異論のない事実である。その地の高度は、その病気を起こすことがほとんどない他の山地と何らの違いがないのである。しかしまた、このような地域の多くは、特に強い放射能の存在が認められる。けれどもこの作用に関しては、ただちに想像だけで判断できず、しばらく今後の結果を待ってからにした方がよい。



           第二節   大地界の要素


      一  大地の温度

    地球の内部に侵入するに従い温度の増加を示すので、地球は固有の地熱を有することを知る。しかし地熱は気象の状態に関しては、ほとんど何も影響を与えず、また非常に長い期間にわたって、ようやく知り得るような些細な変化の状態を示すものであって、実際は全く不変と考えても差し支えなく、我々に対しての影響がほとんど知り得ないものである。しかし固有の熱にではなくて、太陽の投射光に関係する地球の表面、すなわち地表面の温度は少し趣きを異にする。その温度は常に変化するのであって、大気の温度と一定の変換関係を有している。    [p132]    
    この大地の温度は、大地と人間の身体との接触によって、直接人間に作用する。sぢかしながら、大地の温度は、その生理的効果においては、大気の温度とは無関係である。人間はみんな高い気温と低い地面の温度とが、しばしば相対することを知っている。ことに我々の住居内の人工の過熱空気の場合がそうである。またある場合には、まったく反対の現象を起こすことがある。たとえば海辺、荒野、砂漠の気候においては、大地の温度すなわち砂の温度は、気温がすでに低下しているときにも、なお多く熱を保つことがある。
    大地の温度の作用はきわめて著しい。地表面の高い温熱は、もしそれと接触してその熱によって苦痛を感じない限り、またその苦痛は瞬間的なものが多いのであるが、その際に、気温が人間の身体に十分な熱の放散を許す限り、人間に愉快の感じを与える。けれども以上の条件が満足されない場合、地面の温度は、一般の過熱の温度に加える、さらなる苦悶の要素となる。こうした例は、人工的に温められた馬車の中の、熱せられた座席において見ることが出来る。これに反して気温が涼しいほど、地面の高い温度は人間に多くの愉快な興奮をもたらす。砂中に、または日の当たる芝生に横になるときは、その好例である。けれども永続してこのような作用を受けるときは、    [p133]    最初とまったく反対の影響を受ける。例えば、熱砂中に長く横たわった後には、身体を日光にさらさない場合にも、しばしば興奮、苦悶、および心痛の感じ、または一般の不安で不愉快な状態をもたらす。
    温度を、温暖もしくは寒冷と区別する基準についてはすでに述べた。地面の寒冷は、高い気温に対する一時的な対照として求められることがある。例えば、涼しい森林中に横たわるのがそうである。しかしこれも長く継続するときは常に不愉快に作用する。特に精神作業時の気分とその作業能力、または注意する緊張などは、上述の[永く永続する]作用のために、不適当な影響をこうむる。そのもっとも著しい例は、土間の部屋にてしばしば経験する、足下の地面の寒冷である。
    人が水浴の際に経験する大地の液体の冷却作用は、根本的には地面の大寒冷の作用と異なるものではない。人間はこうした作用を第一に、短い期間において求める。第二に、高い気温に対照して本能的に求める。――他の場合においては、本能的な反抗意志に打ち勝たんが為には「道徳的エネルギー」を使用しなければならない[???]。第三に、この場合における清涼作用は、最初の接触の感覚器官の刺激に限られる。    [p134]    なぜなら、この場合には体温が奪いさられた補充として、皮膚の刺激および遊泳の運動などによって、次第にようやく増加する熱の供給のために高められた、温感の継続的な心理的ならびに触動的効果があるからである。だれだって冷水中に静止すると急に非常な不快を感じる[サウナの場合ほんの一瞬であれば、むしろ爽快である]。しかしもしも液体の温度がほとんど体温(36度)の高さを保持するときは、その中に身体の大部分を継続して浸しても、不愉快の感じを起こすことはない。この温度は精神病治療に応用される、継続的沐浴に用いられている。

        < 精神病の治療において、著しく鎮静的な臨床[患者の寝床のそばで寄り添うこと]取扱いの要目として、平等に体温に近く温められた硬い寝台の心理的鎮静作用を用いることがある。
    感覚的作用と触動的作用とは、互いに相交錯し得るものであるが、地面の温度の作用の場合には、特に際立ってその現象を示す。われわれは一般の高温度を受ける際に、自然的または人工的な地面上の臥床[寝床]によって、折々楽しく涼しい場所を求め、きわめて愉快に感じる。けれどもこれらの場所が、そのまま少しも暖まらないときは、ただちに一般的な不快を感じる。肉体は主観的に涼を求める際にも、客観的にはある一定の度を超えるような、継続的な体温放散を許容し得ないのである。 >


        二  大地の運動

    人類に及ぼす影響については、固体および液体の地球表面での運動に区別を設ける必要がある。     [p135]    


[   歳差運動とは、自転している物体の回転軸が、円をえがくように振れる現象。首振り運動、みそすり運動、すりこぎ運動ともいう。章動とは、物体の回転運動において、歳差運動を構成する回転軸の動きの短周期で微小な成分。 無限に連続する点・章動が、歳差というジグザグな線を構成している。 ]

    <  地球の全体としての一様な運動、または非常な長期間にわたってわずかに変化する地球の運動、すなわち地球の公転、自転および章動の様なものは人間の心理作用にとって影響のない運動として、もちろん分離されるべきものである。これとよく似たものとして、地球の表面全体にわたって、常に連綿として絶えることのない「地の脈動」である。これは微小な振動であって、人間の感覚では知られないものが、このようなものから、ようやく次第にその度を強めて、ついに我々が感じ得るような微弱な地震に至るまで、無数の段階の振動がある。
    このような微弱な大地の運動は、有機体[肉体]に対して非常に微細な運動的悪戯をなす。それらは従来精神上になんら注意すべき影響がないものとされてきた。しかしながら、今日の経験によれば、きわめて長期間にわたって継続する非常に激しい振動は、神経系統に不健康な影響をもたらす。鉄道工夫の場合がそうである。これと同じ考え方かして前に述べた地震の前の、動物の心的健康状態の変化を――それが事実とすれば――地震の初期微動が原因で作用したというのは疑わしい。もしも多くの動物が、地面の微動を明白に知覚し、それによって人が極めて強い地震の際に感じるような不安と心痛をもたらすとすると、こうした現象は考えられないことではない。けれどもまた、その際に、たとえば電磁気のような、地表面の微震とは全く異なる大地界の要素が作用していると考えることもできる。  >

[乗り物の加速や減速が不規則なことにより、実際目に見える視覚的な情報と、平衡感覚を司る内耳の三半規管にズレが生じた場合、自律神経がバランスを崩してしまうことが原因。]

これに反して、もしも人が船に乗って地球表面の液体部分上[海]に出る時には、     [p136]     直に大地界の基礎が大きく動揺するのを感じる。こうした動揺は特に最初、船酔いをおこすことが多い。その際に心理的要素も重要な関係をもっている。また、不釣り合いな、非常に動揺した心理状態をもたらし、遂には耐えられない疲労を起こすのは、我々の誰もが知るところである。また、気分を変えて静かに休息するときは、船酔いの発作が止むこと、発作前の心配は発作を促進すること、および一般に精神の衰弱した人は、特に発作を起こしやすいことなどは、よく知られた事実である。
    船酔いの心理的成分は、生理的ムカつきが未だ起こっていない場合、つまりその前兆っとして「吐き気」のみが起こる場合に特によく観察することが出来る。その時の精神状態は、おおむね一般的な不愉快から成立し、その根底にあるものは、すべての心理的性質の著しい弛緩[たるみゆるむ]である。しかしまた、はなはだ説明しがたいような疲労、放心、神経過敏など、ひと言でいって、軽い不快に満ちた心理的弛緩状態が、航海の風景的要素として常に無関係であるとは言い得ないのである。

       <  船酔いをもよおす身体内部の原因については、さまざまな憶測があるけれども、     [p137]     未だよくわかっていない。もちろんこの場合、客観的な身体の動揺と共に一群の運動知覚、特に視覚は重大な役割を務めている。またこうした状態は、同じような条件を人工的な方法、すなわち団舞、汽車旅行などにおいて試みる場合にも起こる。特に汽車の中で前方に向かい、あるいは後方に向かって座ることの難しい場合には、視覚要素が意味する(風景が飛び過ぎることへの)作用に対する特徴を現す。空気の組成および温度の影響もまた、汽車に酔う際には著しい作用を及ぼす。 >


        三  大地の電磁気
人間が大気界の電気の影響とその作用を、敏感に感じることが出来ないように、地球の電磁気の変遷に関しても、知るところが極めて少ない。しかし人間は確かにm電磁気の流れの動揺の中に包まれている。特に最近、十数年来詳細に研究された電気生理学および電気病理学の発見によれば、このような電磁気の動揺の場合には、我々の心理状態はたちまち興奮し、またたちまち鎮静するかのような反応を常に確実に表す。われわれが電気療法を試みるとき、その効果の大部分は、最初に与えられた心理療法、すなわち「暗示」によることは確実である。しかしながら緻密な研究者は誰も、この場合、電気の作用が全然効果がないと断定することがない。いかに精密に心理的健康の動揺と、電磁気の作用とが相関係するかは、最近発見された「心理電気的反射」によってこれを示すことが出来る。これは気分の動揺を、電流計の動きによって明らかにするものである。
    これらの推論は明らかに以下の事実に反するものである。電磁気状態の急激な変化の際、および大気界においてしばしば北極光[オーロラ]によって伴う「磁気嵐」の際には、    [p138]    一時、全地球上の弱電流工事――電信および電話のような――は混乱状態に陥る。しかしこの場合、雷雨および地震の時のような、人間および動物への健康状態の障害[そんなものない]を決して起こすことがない。(迷信に富める時代には、北極光[オーロラ]と彗星とが同じく驚愕をもって迎えられた事については、後節で述べるところがある)

しかしまた他の経験においては悪い結果をもたらすことがある。すべての電気事業、電話事務から高圧電気事業に至るまで、事務の繁雑、心配、注意の不断の緊張など多様な影響によって、直接電気事業に関係する神経系統は、長い期間にわたって少なくとも確かに不健全な結果を生じる[これと電気・電磁気とは関係がない]。
    磁気嵐による健康状態の変化といったものが、まったく観察されないという理由は、おそらくこの電気現象が極圏以外においては雷雨、降雪、地震、南風[フェーン]ように広く知覚されるような現象が生じないからだと思われる。われわれの日常の生活においては、ただ経験的に明らかな出来事についてのみ、人間は因果関係というものを見るからである。磁気嵐においては一時存在した不愉快な感じも、かなり以前から、まったく感じられなくなったという報告に接することがある。けれども極圏地方においては、このような感じは全く存在しない。こうして北極光[オーロラ]は視覚に著しい印象を与えるにもかかわらず、先行的または随伴的な健康状態の変化を全く伴わないというのは不思議である。実際のところ、他の不明な原因による不愉快な感じと、その際におこる特に印象的な自然現象とを、誤った因果関係として関連付けてしまうのは、われわれにとって常によく見られるところである。


        四  大地の組成
大地の構造――岩石、水、各種の分解物、鉱石などの混合――が、    [p139]    人間の精神衛生に対して一種の影響を与えることがある、というのを聞けば、我々はむしろ奇異な感じを受ける。大地の構成が天候の形態、特に「電気平均の現象」の場合に影響するのはきわめて容易である。しかしそれがいかにして人間に影響するのか、またもしも、われわれが地中からガスの噴出ときのような、認めやすい作用の形式をここで言うとすると、――それは「空気の組成」となるものなるがゆえに――大地の作用を単に地中に存在する物質の固有の「遠距離作用」のみに限るべきものなのだろうか。このように問題の性質が確定し難きものが多いのであるが、心理的・精神的衛生に対する大地の組成の影響の問題は、近年に至り学者および俗人の研究によって一新され、着々説明されるに至っている。
    人が一種特別な機械すなわち魔杖の助けによって、地球内部に隠れた水脈や鉱脈を発見し得るというのが、数百年間言われてきた。この「魔杖問題」は迷信的・魔術的方面に加えるに、科学的・心理学的方面を有している。魔術は指定の能力を杖に与える。その「杖」はY字形の股ある杖で、捜索者はその両股を両手に持って、股なき棒の部分を水平に保持する。もしあるところに地下水または鉱脈などがあるときは、     [p140]     その棒の端は地面に向かって傾斜する。このような杖を切り取るには特別の特別の条件は要らない。そしてこの杖に対して次第にすべての考えられる隠匿物――犯罪人のようなもの――をも見つけ出す力を与える。その科学的解釈は、1700年レブルン師によって弁護されたが、ついにこの魔杖を単なる指示者の役におとしめた。その杖の唯一の能力は、捜索者の不随意運動を明示するに過ぎないものであると。捜索者が水の存在を感じること――実際、水脈発見のために最も近年においてもこの方法が実行された――および一種の軽い不随意の身震いによって、その状態の変化が表出されると普通に信じられている。ではいったい何によって捜索者が水の存在を知るかという問題は、未だ全く明かではない。また彼らの答えも何ら一致するところがない。しばらくの間、人々はこれらの探索者に本能的認識の表出を単に認めようと欲したのである。けれどもこれは熱心に主張されたことではない。牧羊者、山林官および農夫などは、天候変化の徴候として同じような本能的直感を持っている。また、牧羊者、植物採集者らはしばしば病気および薬剤に対して著しい洞察力を有することがある[秘境の先住民もそうだ。直感とは蓋然性のことだ]。    [p141]    そうだとすると、地下水発見の際に、その存在を印象すべき地勢の特性に関する、同じような確実な洞察力を現すのではないだろうか。しかしこのような経験的洞察は、熟知した範囲の対象においてのみ可能なことである。天気預言者も、もしも彼が山地の住民だったとすると、海浜に移住したときは、全く彼の技能を施すことが出来ずして困惑してしまう。水の存在に反応し、それを魔杖の振動によって示す能力は、地勢の性質を全く知らない地方に「魔杖携帯者」が赴く場合、明らかに示される。これによってわれわれは以下の事を結論付けることが出来る。巨大な水量は、一定の遠距離から我々の身体の状態を変化させ、魔杖の反応によってその表出をするかのような、一種の心理的興奮またはそれに類似するものを生み出す。これらの判断の物理・生理的説明として、最近、放射能を引用したことは前に述べた通りである。  [  生まれつきの傾向や癖、相性といったものがあって、これが特殊な才能または欠陥としてつきまとう。それの原因といったものが不明で未知であることから、直観や本能などと言われている。しかしこれは実際に大いにあることで個別的で個人的・親族的な遺伝にも現れている。俗にいう「血が騒ぐ」というのがこれである。 ]  このことに関しては、先に疑いを抱いていた人々も、いまはこれを承認するに至っている。実に放射能は今日、憶測的処女であって、これなくしては人は何事をも企てることが出来ない。実際、われわれは水の遠隔作用が個々の神経過敏な人々の身体に、どのような影響を及ぼすのかという事について些細な知識も持っていないのである。    [p145]    われわれは以上の作用を仮に事実として記述するだけで満足しなければならない。
    これと同じく、また他の物質の大集団、鉱石、石炭なども同じような遠隔作用[??]を生ずるのは、もちろん不可能なことでない。それぞれの場合において、大地の組成に対する直接の知覚[直感]はまったくないけれども、その心的[直感・情緒・生理的]状態において何らかの影響を被るような、特殊で鋭敏な人々がいる。

     <  魔杖携帯者も水に対する知覚を全く持たない。また、軽い騒音および嗅覚が一定の役を務めることがある、という事についてもまったく聞いたことがない。多分この場合は気圧の変化のときと同じと結論し得る。気圧の変化は、人間はこれを知覚することはできないけれども、、なおわれわれの健康状態に強い影響を及ぼしている。[複合的で間接的な作用から、そのバランスの隙間から本体が垣間見えることがある]。
    このような心身状態の変化は、「読心術」の際に読者を導く技術に伴って起こる興奮にも似た、一種の興奮として考えることができる。また読心術においては、その問題に対する努力によって正当な解釈に近づき、あるいは遠ざかるに従って動揺する、一種の興奮状態が生じる。このような動揺が、不用意な軽い運動を生じさせる。読心者は実にこれによってその心理状態を知るのである。これも同じく、隠れた地下水に接近するとき、それに対して敏感な人々は一種の興奮を惹き起こす。あるいはその探索事業に着手するときからすでに興奮している人は、なおその状態を高める。こうしてその興奮は不随的運動として現われ、    [p143]    従って魔杖の先端を振動させる。この運動は随意に抑圧することが出来る。それと同じくいかなる興奮の表出も、明らかに一定の範囲まで抑えることが出来る。もしも人が、自らが惹き起こしている興奮状態を冷静に自覚していると、おおむね、脈拍およびその他の変動の調整によって、水に近づくときに起こる興奮状態を、魔杖の振動によって示される運動現象と関係なく発見することが出来る。魔杖はただ水に敏感なように見える偶然の歴史的指示機械に過ぎないのである。それが非常に簡単にして、またきわめて確かな結果を出しし得たのは、魔杖自体の経験的観察によるものではないのである。

      五  大地の湿気
大地の湿気は、たとえば湿った地面に横たわるときに直接人間に作用する。このときに人間が湿気の作用について知ることは、それがもたらす体温の奪取および湿地上の空気中[および湿地面]の湿気、また空気の組成の要素(湿った空間内の水蒸気の割合)によって十分に説明が出来る。また、鉱泉の作用は、暖室装置の影響と皮膚の科学的刺激とに基づくものである。(その他、今日一般に研究されているのは、放射線の性質の存在に関するものである)。

      六  大地の重力
これは一定の場所では少しも変化することのない要素である。こうしてただ、地理的位置の違いおよび海抜の高度によって変わるものであるが、天候の要素とはならないけれども、少なくとも気候の要素とは、なり得るものである。
    

      余論  天界の要素    [p144]    
気象学における「月の問題」は、多くの教科書で述べられているように、誤った臆説を捨て去ることによって成立したものではない。月と地球との関係を熱心に研究したアルレニウスは、月の引力によって起こる大気の潮汐[ちょうせき]作用に関する憶測を捨てた。こうして彼は、天候および生物に対する月の影響を広い範囲にわたって考察し、それらの媒介者は空気中の電気であるとした。われわれの立場からすると、こうした作用は「月光」と同じように問題となるものである。このように、月は常に大気の特性を変えることによって、われわれは自然にそれを大気中の天候状態として取扱う。従って、特殊な要因として注意すべきものは、大気の媒介によらずして直接、われわれの身体に働く月の作用である。月はそのような作用をこの重力によって地球上の出来事に及ぼしている。太陽の潮汐[ちょうせき]、干潮[かんちょう]および満潮は、そのもっとも重要な表現である。重力が生物に対して全く無関係な要素でないことは、植物の?動によって示される。もしもわれわれが、一度これらの作用の可能性について知るときは、一般に、月だけにこれを満足することはできない。なお、我々は、我々に対して変遷しつつある引力の合力を有している(これが地球の大気に影響する場合には、一つの重要な天候要素を現す)。その分力は全太陽系の天体、すなわち月、惑星、彗星などによって供されている(太陽系以外の星は、」その影響がないために観察の必要なし。「星座」は占星術において、運命の形式に関してはなはだ顕著な意味を帯びているが、ここには熱心な科学的形風貌を現すべし[??]。 我々は星群間の引力の変化が、星の状態に勢力を及ぼし、それを騒乱させることを知っている。それと同じような影響が生物界の生態系においても、また身体内部の生理の作用においてもある、ということが十分に考えられる。ちょうど太陽が人間や生物全体の生態系に絶大な影響を及ぼしているのと同じように。もちろん、それに比べれば些細な影響ではあるが・・・。    [p145]    [生物が海からっ陸へと進出するのであるが、月の潮汐が生殖行動と、月の満ち欠けがその成長のリズムに大きく作用している] しかしまた、このような影響を否定できるような経験的事実は、今のところ知られていない。一定の周期的関係は、少なくとも問題になるべきものであるが、これについては別に後章で説明する。その中で「月夜狂」が月の引力以外の要素によって十分に説明されることは、すでに述べた通りである。しかもその通俗的な形式、月が「睡眠者を引き寄せる」という事は、多少真実に近いようである。そうだとすると、他の見地からも新しい説明がなされる。われわれが今日、天候またはその他の原因に帰した多くの些細な心的状態が、「天体」の作用に由来するという仮定は、厳密に可能であることを十分に示すことが出来る。    [*1]